(2014.4.27公開)
(この地図は「山旅倶楽部」を使用して作成しました。)

津軽森林鉄道
 喜良市川支線
 その3
相野股沢から戻り、再び母沢沿いに進みます。軌道跡は、しばらく現林道となっているのであまり面白くありません。しかし、後半の区間は林道から離れ、母沢沿いに進むのでちょっとは期待できます。

この区間の調査は、2003年から2013年にかけて行いました。


途中に「十二本ヤス」というヒバの神木があります。

これは幹の途中で枝が十二本に分かれており、魚を突くヤスの形に似ていることからこの名が付いたそうです。


林道脇には軌道時代のものと思われる電柱が残されていました。

ちょっとわかりにくいですね。


途中にある七ッ滝です。設置してある看板によると、「ここにあった水力発電所は昭和28年に営林署が造ったもので、これによって作業所でのランプ生活は電灯に変わり、また、ラジオを聞く楽しみも増えました。」とのことです。

なお、これより早い昭和26年には、常家戸沢事業所から800mほど離れた不動の滝に自家発電所が設置されました。これは脇野沢営林署の巻田署長が考案したペルトン水車式のもので、3カ年計画で8カ所に設置する予定でしたので、この七ッ滝の発電所もそのうちの一カ所だったと思われます。

当時の新聞によると、「二十数名いる杣夫達に電燈がついて一番嬉しいものはと聞くと『ラジオで津軽民謡を聞けるのが一番嬉しい』と素朴な微笑と共に語っている」とのことです。


常家戸沢支線との分岐地点です。常家戸沢支線の木橋跡は、かなり崩壊が進んでおり残念です。

2003年及び2006年の姿は 常家戸沢支線 をご覧ください。あの頃はまだ立派でした。





(この地図は「山旅倶楽部」を使用して作成しました。)

喜良市川支線は、常家戸沢支線との分岐点を過ぎると北東方向へ進みますが、すぐに東へ進路を変えます。


進行方向が東に変わった地点付近です。

昔の国土地理院の地図では、この先は少なくとも8回は母沢を渡って進んでいるようです。

現林道はどんどん高度を上げ、川から離れていくので、ここからは母沢沿いを歩いて進みます。

まずは東へ方向を変えるこの地点で母沢を渡ります。しかし、橋跡を見つけることはできませんでした。


軌道跡は判然としません。

両岸のスペースから考えると、軌道はこの辺りでさらに母沢を渡っていたかと思われますが、橋跡を見つけることはできませんでした。


次の母沢を渡る箇所でも橋跡は見つけられませんでしたが、取り外されたレールがまとめて置かれていました。


ようやく木々が生えていない空間が現れました。軌道跡は続いているようです。


現林道から軌道跡を見下すと、このような感じになっています。

軌道後は写真中央部分を右から左へ進み、母沢を渡っています。

また、画面中央やや右あたりに電柱が見られます。

※ 写真にカーソルを合わせると、軌道跡を表示します。


その電柱に近づいて先端をよく見てみると、白い碍子が残っていました。


次の母沢を渡る地点では、レールと枕木らしきものが残されていました。


対岸には、橋脚が残されていました。

笹藪の勢いがすごいため、橋台の確認は困難でした。


周囲より笹藪の草丈がやや高く、一筋になって繁茂しているので、軌道跡はすぐに分かりました。

このように、時々笹藪が軌道跡の指標となってくれます。


続いての母沢を渡る箇所です。

レールと枕木がくっついたまま、だら〜んと垂れ下がっていました。

写真は2003年のものですが、2012年に再訪したときには、残念ながらレールは下に落ち、枕木はなくなっていました。

かなり土砂に埋まっているようでした。近くに軌道跡らしき道床がもう1つ見られることから、ここは土砂崩れにより使用不可能になった旧線だったのかもかもしれません。


近づいて撮影しました。この辺りを掘れば、まだレールや枕木が出てくるような気がします。


電線?針金?とそれに付いている青い碍子が垂れ下がっていました。

碍子の色は何か意味があるのかな?


遺構が見つからない区間でも、道床の盛り上がりや木々が少ない空間が続き、軌道跡が分かりました。


軌道跡をたどって母沢にぶつかっても、橋脚跡すらないような箇所が多く、ガックリです。


木の下に橋脚が残されていた箇所がありました。

橋脚には金具も付いており、橋が架かっていたと思われますが。この前後の軌道跡が見あたらず、存在が謎です。


一見すると、周りと同化して枯れた木のようですが、電柱が残されていました。先端には碍子が残されていました。


軌道跡はまだ続いているようなので、あきらめずに進みました。


小さな沢を渡る箇所に木橋が残されていました。きちんと橋桁が残されていて、なんだかホッとします。

勇気をもらって、この先にもどんどん進みます。


母沢上流方向を撮影しました。ちょっとわかりにくいですが、画面左側に空間が続いています。

一瞬軌道跡かと思ったのですが、どうやら枯れた川のようです。


そこには、少し大きめの石が転がっていることから軌道跡ではなく、枯れた川であると思われます。

なお、この先は数十メートルで先ほどの母沢につながっています。

軌道は左側の茂みの辺りを通っていたのかな?(確認忘れた…トホホ…。)

自然に流れが変わったのか、それとも軌道敷設の障害のため人工的に流れを変えたのか…謎です。


軌道跡はまだまだ続き、母沢を既に10回ほど渡っています。遺構がなかなか出てこないので飽きてきました。


母沢を渡る手前です。笹藪の中に何か見えました。


笹藪の中には、崩壊しかけている橋桁が残されていました。

ここまでの中で一番立派で、ここまで来た甲斐がありました。


笹藪がじゃまで全体像をとらえられないので、数枚に分けて撮影しました。

川岸まで2つの橋脚を設置していたようで、思ったより長めの木橋でした。


母沢に架かる部分の橋桁は無くなっていましたが、対岸にも遺構が残されていました。


崩壊しかかっていますが、なんとか持ちこたえています。

10年くらい前だったら橋が架かったまま残っていたのではないでしょうか。10年前に調査しておけばよかった…トホホ…。


木橋跡にパワーをもらって、さらに先に進みます。

川岸ギリギリを通っていた箇所もあり、石垣が残されていました。


軌道跡の傍らに壊れた小屋がありましたが、中には何も残されていませんでした。

この先は激藪地帯のため進めなくなり、後戻りするはめになりました。体力消耗です。


もう何回母沢を渡ったか、正確に覚えていません。

遠くから見ると何も無いように見えますが、橋脚が残されていました。


2本の橋脚には金具も付いていました。また、対岸にも小さな橋脚が残っていました。


軌道跡はまだまだ続きます。

まだ続くのか…だんだん疲れてきました。


流された軌条が転がっていました。

調査開始から約1時間半、1qくらいは歩いたと思われます。

この辺りで引き返すことにしました。


2003年の調査では、大判沢との分岐より先まで車で進みました。

橋脚のような跡がありましたが、近くに軌道跡を確認できなかったことから、遺構ではないかもしれません。


軌道跡がそのまま林道に転用されていない区間は、遺構がいろいろ見つかって楽しいのですが、思ったより多くなかったような感じがします。まあ、最後まで進んでいないので、まだ遺構が残されている可能性はありますが…。

どこまで進めばいいのか、とにかく疲れました。もう年でヨボヨボだぜー。               


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( 線名 地図 )