(2014.9.7 公開)
(2016.9.16 一部修正)
よみもの

レポートを補完するため、津軽森林鉄道を中心に、青森県内の森林鉄道や軌道について調べたことを取りまとめました。
(…というか、これからヒマをみながら少しずつ追加して取りまとめていきます。)

引用した部分については、旧漢字は新漢字に直すなど、文章表現も意味が変わらない程度に現代の表現に直しています。


津軽森林鉄道ができるまで
○ 近世から明治の状況 
 津軽半島や下北半島の山々にはヒバ林が広がっていました。江戸時代には、藩がヒバ林への立ち入りを禁じ、ヒバを保護育成してきたため、明治時代まで森林資源が残されていました。

 明治時代に入ると、産業の発達により木材の需要が高まってきたため、国が自ら官林(国有林)を伐採して、木材の生産・販売を行う官行斫伐事業を実施し、この事業で得た利益を国有林の経営にあてることにしました。

 これまでは、山で切り出された木材は、主に津軽半島や下北半島の各港から帆船で海上輸送により函館や北陸地方へ輸送されていましたが、明治24年に東北本線全線、明治27年に奥羽本線(青森〜弘前間)が開通し、鉄道により膨大な木材を東京、名古屋、大阪、北陸等の市場に輸送することが可能になりました。

 しかし、山から製材所までの輸送は、依然として昔の方法で行っていたため、迅速かつ安定した運材方法の確立が求められていました。


○ 森林鉄道以前の運材
 雪や水を最大限に利用した、雪橇(ゆきぞり)、管流(くだながし)・堤流(つつみながし)、等により運材を行っていました。

 雪橇とは、雪を固めて作られた橇道を「よつ」(主として緩勾配の幹線で使用する橇)「ばつ」(急勾配の山腹または小沢等で使用する橇)を用いて運材する方法です。
 管流・堤流とは、丸太や土砂等で堰を作って川をせき止め、そこに伐採した材木を1本ずつバラバラに投入し、堰を放って水流により一気に下流へ押し流す方法です。

 当時の運材手順は以下のとおりです。 
@
A
B

降雪前までに、伐採を終えるとともに、橇道の下地整備や堰の製作を行う。
降雪後に雪を踏み固めて橇道を造り、橇を使って材木を川沿いに運び出す。
春の雪解け後、水の貯まった堰に材木を投入し、堰を放って川に流し、下流の土場へ集材する。水量が少ない時は空堰(空鉄砲堰:水のみをためる堰)を別に設け、本放流と同時に水を一気に放水することで材木を流す。

 管流は自然の力を利用した運材のため、いくつかの欠点がありました。





雪が少ない年は水の量が少なく、思うように木材を流すことができない。
雪解け水を利用するため、運材期間が1年のうちでわずかな期間に限られ、計画的な搬出ができない。
木材が川流し中に損傷したり、途中で無くなることがある。
堰を放って多量の水を流すため、川の流れが勢い余って下流の農耕地、橋梁等に損害を与えることがある。

 このように、従来の方法では運材期間や運材量が制限され、需要に対応することが困難なため、新たな方法が求められていました。道路設置や河川整備など様々な方法もありましたが、より効率よく運材するため、津軽半島では森林鉄道の導入が検討されることになりました。


○ 運材の近代化、最初は運河の計画だった
 まだ森林鉄道が計画される前の、明治37年5月1日の東奥日報に「大林区署の運河計画」という見出しで以下のような記事が掲載されています。
「(内真部小林区の)東郡後潟山根より同海岸までの間に運河を設ける事となり既に設計も出来上がる」「同運河は河川の力によらず深澤より放流する水を利用し木板をもって箱形のものを造りこれを連結し海岸まで延長するものなりとこの長さ26町(約3q)にしてこれに対する経費は1万円なり」

 山から海岸まで運河を設置し、効率よく運材する計画がありました。「木板で箱形の運河」については、事前に試験を行っていたようで、「明治林業逸史続編」にその様子が記載されています。
 「そこでいわゆる箱樋をこしらえてやったら宜しかろうとい言うので、まず大林区署の構内で試験をやった。」「これだけの試験ではいかんから更に進んで実地でやろうじゃないかと言うので、蟹田の山奥で、上幅三尺位の箱で100間(約180m)ばかりこしらえて試験した。この試験は相当に良かった。」

 青森大林区署の構内での試験のほか、実際に旧蟹田町の山奥で長さ約180mで試験したというので、運河計画に力を入れていたことがうかがえます。


○ 津軽森林鉄道建設のさきがけ 軽便鉄道計画
 運河設計のための実地調査等を行いましたが、運河は利用地域が限定的であり、不便であることから、広域的な運材が期待できる軽便鉄道を敷設することに決定されました。先述した運河計画と同じ月の新聞に記載があります。
 〔明治37年5月22日東奥日報〕
「…後潟官林の伐材木を運搬するに止まるのみにて管内の他の大部分の木材運搬には従来の如く非常の不便を感じ居る由にて山根署長は更にその便を計らんがため過半種々計画する所ありし結果ここに軽便鉄道を敷設することに決定し目下設計中の由なるかこの延長は約1里位にしてこの鉄道工事は明年度において実施すべき予定なりと。」                                

 〔明治37年5月26日東奥日報〕
「…つまり本線レールの小形なるものにして一種の小機関車を用いて運用するものなりという 工事は目下設計中の事なればまだ知るを得ざるもたぶん運河工事の3倍すなわち6万円くらいにて竣工をみるを得るべしという ちなみに該鉄道竣工するに至れば大林区署において伐材せる木材のみならず一般民間の使用をも許す筈なれば同地方民においても大いに益するところあるべし。」

 敷設箇所は内真部小林区署管内(具体的な場所は不明)で、延長は一里(約4q)という計画で、津軽森林鉄道に比べると、規模はかなり小さいものでした。軽便鉄道の規格は、本線レールの小型のものに、小機関車を用いて運搬するもので、運材だけでなく民間への使用も視野に入れており、工事は明治38年度に実施する予定となっていました。

 しかし、同じ明治37年5月の上旬には、運河計画が着実に進んでいたものが、下旬に急きょ軽便鉄道敷設に変更されており、短期間に計画が変わったことに驚きです。他県では既に森林鉄道の計画があったことから(後述)、もしかすると2つの案が同時並行で計画されていたのかもしれません。


○ 拡大する津軽森林鉄道計画
 津軽半島における運材の効率化を図るため、津軽森林鉄道敷設を計画し、実行したのは、当時の青森大林区署林業課長であった三木隆太郎氏でした。
 また、具体的な現地調査や設計は、農務省技師持田軍十郎の指導のもと、青森大林区署の土木主任技師二宮英雄が総力をあげて行いました。
 その第1次計画は明治38年5月に設計されました。「明治林業逸史」に次のように記されています。
 「喜良市(きらいち)から最急30分の1の逆勾配で分水嶺に至り、120間(約218m)の隧道でこれを越え、最急20分の1の順勾配で、内真部の海岸土場に達する延長15マイル(約29q)の線路で、之に12ポンド軌条を敷設し、5トン機関車を運転する計画で、総経費20万円の予定であった。」

一方、「樹齢百年」には下記のように記載されています。
「最初ヒバの蓄積の豊富な喜良市・内真部第1・中里の3事業区を主体に計画をたて、森林鉄道は内真部より内真部山国有林を通り、金木小林区署管内喜良市山国有林を経て喜良市部落に至る、幹線24q、及び中里に至る支線8qを開設する、いわゆる石川越計画線が、同年(明治38年)7月に調査終了した。」

 2つの資料に若干の違いはありますが、この第1次計画は、前述の軽便鉄道計画をやや拡大したような規模で、内真部から隧道で喜良市へ進み、中里への支線も含めたもので、「石川越」と呼ばれていました。
 計画では、青森からの敷設は含まれていませんでしたが、後に計画が追加修正されました。
 〔明治39年2月19日東奥日報 鉄道延長の計画〕
「青森大林区署官行事業に係る木材運搬の目的をもって喜良市内真部間に軽便鉄道を敷設すべき計画なることを既報の如くなるがなお聞くところによれば同鉄道を内真部より青森に延長する計画をなし既に着手に決定したりという…」

 内真部から青森までは海路で筏輸送を行っており、時化(しけ)によって運材に影響があることから、軽便鉄道の敷設で効率化を図ろうとしたものです。また、普通旅客の利用も行えば、五所川原・金木地域から青森に出るのに便利と期待されていました。

 しかし、この計画では山林局は納得しなかったようです。「明治林業逸史」にそのことが記載されています。
 「之を現在(津軽森林鉄道)の施設に比較するとその運搬力甚だ乏しく利用区域もまた著しく縮小せられ、津軽半島の大森林を開発する輸送機関としては、その規模あまりに狭小なる感がある。然れば本計画が予定案として進達せらるるに及び、山林局より蟹田迂回線再調の照会が発せられた。」

 「石川越」では、津軽半島南部を横断し、半島全域の森林開発には不十分ということで、広範囲をカバーできるように蟹田を経由する計画(「六郎越」)の再調査を行うこととなり、調査後にどちらのルートを採用するか検討することになりました。
 ちなみに、計画名の「石川越」「六郎越」は、それぞれの分水嶺近くにある沢の名前の「石川沢」「ロクロ沢」に由来されると思われます。


※ 青線が六郎越
   (実際に敷設された津軽森林鉄道)
   赤線が石川越(想定)
   (最初に計画されたもの)

(この地図は「山旅倶楽部」を使用して作成しました。)


○ 津軽森林鉄道のルート決定
 明治39年5月、蟹田を経由する「六郎越」の調査が終了しました。その後、「石川越」と「六郎越」のどちらの計画を採用するか、議論が難航したようです。当時の様子が「明治林業逸史」に記載されています。
「故松波課長の直話によれば、喜良市内真部と蟹田迂回線との優劣に付き議論沸騰して容易に決せざりし折り、(三木林業課長が)往昔『ダイ、イズ、キャスト』と叫んで、ルビコン河を渉りし英傑シーザーを思い起こし、『蟹田迂回線を採る』と一喝せられしところ、さしもの議論もたちまち終結を見たりとのことである。」

 津軽森林鉄道の必要性を唱えていた三木林業課長の英断で、より広範囲の運材が可能である「六郎越」が採択され、明治39年6月に大体の計画が確定したようです。


○ 計画は日本最初ではなかった
 津軽森林鉄道は、日本で最初の森林鉄道ですが、計画は日本で最初ではなかったようです。
 明治37年5月1日の東奥日報(運河計画が記載されていた同じ日)に、「秋田県の林業鉄道の敷設」という記事がありました。
「…杉材産出をもって有名なる北秋田郡長木澤より白澤停車場まで林業鉄道を敷設することとなりいよいよ近々のうちに着手の運びとなるべく之れ実に全国林業鉄道敷設の嚆矢となるべしという なお、信濃木曽及びその他1〜2県においても林業鉄道設計中の箇所ありと」
 
 「森林鉄道」ではなく、「林業鉄道」という表現がちょっとステキな感じです。
 増大する木材需要に応えるため、秋田や木曽など各地では、より効率的な運材が行える林業鉄道が計画がほぼ同時期に進められていたようです。
 津軽森林鉄道はこれより後に計画されたので、他県での取組がもう少し早かったら、日本で最初の森林鉄道にならなかったのかもしれません。