(2022.11.15 公開) |
津軽森林鉄道 金木西貯木場連絡線・金木東貯木場連絡線 |
|
(電子地形図(国土地理院)を加工して作成) |
今回紹介するのは、金木東貯木場連絡線と金木西貯木場連絡線です。 津軽森林鉄道本線と金木貯木場を結ぶ短い連絡線で、山林の中ではなく町中を通ります。 金木東貯木場連絡線は昭和10年から44年まで敷設、金木西貯木場は昭和18年から35年まで敷設されていました。 金木東貯木場連絡線は、当初は金木貯木場連絡線という名称でしたが、金木西貯木場連絡線の敷設後、区別するために「東」を名称に加えたと思われます。 |
【金木貯木場設置と連絡線敷設の経緯】 津軽森林鉄道開業当初は、金木貯木場はありませんでした。金木東部の津軽山地から産出された木材は、金木駅から東へ約1.5㎞に位置している喜良市停車場(貯木場)から津軽森林鉄道で青森へ搬出されていました。 昭和5年、五所川原~金木間に津軽鉄道が開通しました。同社では金木駅近くに貯木場が設置されれば、森林鉄道だけでなく津軽鉄道も木材運材に利用されることを想定し、金木駅近くに貯木場の設置を関係機関に要望していました。 |
|
青森営林局も金木貯木場の必要性を感じ、設置を計画していたものの、津軽鉄道開通時は予算の関係で実行できなかったのですが、昭和9年に青森営林局が金木駅構内北東部に貯木場の設置を決定しました。 |
|
金木貯木場の設置に伴い、喜良市停車場(貯木場)からの1,357mの短い区間に金木(東)貯木場連絡線が敷設されました。津軽鉄道の貨物輸送は、木材は米に次いで多く輸送されており、金木貯木場設置と連絡線敷設によりさらなる増加が期待されました。 なお、この新聞記事の最後に、津軽鉄道の支配人が「營林局と協力して」と話しています。「津軽鉄道六十年史」によると、青森営林局が用地買収を津軽鉄道に引き受けてもらいたい旨の要望があったのですが、青森営林局の予算内での買収が困難であったため、津軽鉄道が貯木場設置によるメリットを踏まえ不足分を負担したとのことです。それだけ津軽鉄道は金木貯木場に期待していました。 そして太平洋戦争が始まると、木材の需要がより高まります。 |
|
(電子地形図(国土地理院)を加工して作成) | 記事によると、貯木場が大きくなり、金木駅からの木材積出し量が日本一となったことが記載されています。おそらくこの時期に、既に設置されている金木貯木場の西側(津軽鉄道の西側)に西貯木場が増設されたと思われます。そして津軽鉄道本線から1,205mの金木西貯木場連絡線が敷設され、相内、内潟からも木材が金木駅に集められました。 左の地図を見ていただければ分かるように小泊、相内、内潟からは津軽森林鉄道でそのまま南下し金木貯木場へ運材できるようになりました。金木西貯木場連絡線がなければ、いったん喜良市へ行ってからスイッチバックしないと金木貯木場へは行けないので、西連絡線の敷設により効率よく運材できたかと思います。 |
津軽森林鉄道の金木貯木場連絡線敷設の経緯は以上です。 なお、上記の昭和19年の記事後半によると、木材が滞貨していることが記載されており、津軽鉄道による金木駅からの運材は効率よく行えていなかったようです。戦後も同様なことが起こり、ちょっとした誤解もありました。 |
|
なお、この記事の5ヶ月後にも津軽鉄道の輸送力が乏しく滞貨していることが記事になっており、津軽鉄道が木材輸送に苦慮していることがうかがえます。 …それでは、現地レポートをご覧ください。現地調査は主に2014年に行っています。 |
(電子地形図(国土地理院)を加工して作成) |
金木西貯木場連絡線 この線が記載されている地図は少なく、「金木だより(旧金木町役場発行)」、「観光案内金木町芦野湖」などしかありません。これらの資料のほか、昔の空中写真を参考に敷設場所を予想しました。 |
調査は、津軽森林鉄道本線からの分岐点から行いました。 本線は直進方向に進みますが、連絡線は左の畑に沿って進んでいきます。 |
分岐してすぐに国道339号を横切ります。国道からら本線との分岐地点方向を撮影しました。 畑に沿ってカーブを描いているのが軌道跡です。 |
国道339号を横切った先は、小田川土地改良区の横を進んでいきます。 |
その後は、住宅地の中を進んでいきますが、特に遺構を見つけられませんでした。 | ||
左に津軽鉄道の踏切が見えてきました。 ここは踏切を渡らずに、津軽鉄道に沿って中央の看板を右に進みます。 |
しばらく進みと正面に津軽森林管理署金木支署が見えてきました。 この先の一帯が貯木場跡です。 |
金木支署手前の空き地の柵にはレールが使われていました。 |
金木支署に何か残されてないか柵の外から覗きましたが何も見つけられませんでした。 なお、「「二邑亭駄菓子のよろず話」改め道楽者の部屋」では1977年の状況が紹介されており、運材台車などが残されていたようです。 |
金木支署の東側を進みます。 | 写真左に津軽鉄道が通っています。金木支署と津軽鉄道の間は空き地となっており、ここも貯木場跡地だったようです。 |
空き地の奥には、取り外された柵が積まれており、その柵はレールを活用したものでした。 |
金木支署の裏手に回りました。この辺りまで連絡線は敷設されていたと思われます。 周囲に設置された柵や、写真左下の溝のフタはレールを活用したものでした。結局レール以外の遺構は見つけられませんでした。 |
(電子地形図(国土地理院)を加工して作成) |
金木東貯木場連絡線 東連絡線の調査は、金木貯木場跡から喜良市停車場に向かって行いました。 |
津軽鉄道の踏切の東側です。 写真右が金木貯木場跡ですが、現在は金木中学校となっています。 |
中学校の向かいは現在も貯木場となっており、レールを活用した柵が設置されています。 |
先に進む前にちょっと戻って津軽鉄道の踏切から北側(貯木場方向)を眺めます。 線路の右側が金木貯木場、左側の奥が西貯木場です。 昔の空中写真をみると金木駅から貯木場まで引き込み線のようなものが写っており、現在はそれっぽい空き地が残っていました。 |
踏切から南側を撮影しました。この踏切から200m先、遠くに三角屋根が見えているのが金木駅です。 線路左側の茂みの先には、引き込み線の跡らしき空間が金木駅まで続いています。 なお、貯木場連絡線が金木駅まで延長して記載されている地図も見られますが、おそらく津軽鉄道からの引き込み線を記載したものと思われます。 |
金木東貯木場連絡線に戻ります。 しばらく進むと、県道2号屏風山内真部線と合流します。 軌道跡はこのまま直進しますが、私有地のため回り込んで進みます。 |
東から回り込んで進みました。 軌道跡は弘前大学農学生命科学部の東側を通り、神社の前を横切って進んでいたようです。 |
この先は道になっており進みやすくなっていましたが、だんだん草の繁茂が激しくなり、ちょっと軌道跡を見失いました。 |
しばらく進むと畑に出ました。 畑の向こう側を軌道跡が横切っているようですが、この先は進めないので、いったん戻り車で別方向から回り込みます。 |
西側から農道を通って回り込んで進みました。 北西方向(金木貯木場方向)をみると、軌道跡はコンクリートでフタをされた水路に活用されていました。 |
南東方向(喜良市貯木場方向)へは、軌道跡は農道と水路になって続いています。 |
水田に出ました。 軌道跡はこの先も水路に活用され、金木川を渡って津軽森林鉄道本線に合流し、写真左方向の喜良市貯木場へ続いていきます。 なお、金木川を渡る箇所を調べましたが、遺構を見つけることができませんでした。 |
現地調査を行ったものの、軌道の延長が短く、町中での調査であまり面白くなかったので、レポートではちょっと前置きを長くしてみました。 ただ、町中での調査にもメリットはあります。気軽に調査できること、交通事故の危険性を除けば比較的安全に調査できること、などです。当時、息子を連れて散歩気分で調査したことが懐かしく思い出されます。 |