(2025.6.7 公開)

(この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。) 
  狩場沢の民間森林軌道
青森県内には、レポート作成時点で判明している限り、民間の森林軌道が2箇所存在していました。1つは十和田市の雲井林業軌道、そしてもう1つは、今回紹介する平内町の狩場沢にあった軌道です。

廃藩置県後、黒石藩が所有していた平内の山林のほとんどは国有林となりましたが、その後、払い下げが行われました。

昔の新聞記事や平内町史を確認したところ、山林の所有者が堀差川の奥地に製材所を設置し、製材所から国鉄東北本線(現:青い森鉄道)狩場沢駅まで軌道を敷設したということが分かりました。

軌道は大正2年頃には敷設されていたようで、大正4年発行の地形図には軌道の記載がありましたが、大正10年には事業を中止したとのことです。

大正時代に短命に終わった軌道のため、2004年に行った現地調査では遺構を見つけられませんでした。



 (この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。) 
 
狩場沢駅です。2004年調査時に海側の駅舎を撮影し忘れたので、レポート作成時の2025年に撮影しました。

現在は寂しい光景となっていますが、大正初期には、セメント樽材の出荷などがあり、青森管内第4位の貨物取扱数を誇っていました。


狩場沢駅の山側です。ここが軌道の起点となります。

大正時代には駅付近にも製材所が設置されていたようですが、それらしき雰囲気は全く感じられませんでした。
 


軌道跡は狩場沢駅から北西に向けて進みますが、遺構を見つけることができませんでした。


しばらく進んだ後、軌道跡は南西へ方向を変え、奥地を目指します。

写真のど真ん中が軌道跡と思われます。


このまま進めそうですが、車ではちょっと難しそうなので、引き返して普通の道で助白井集落方向へ進みました。



 (この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。) 
狩場沢駅から約5q、助白井集の先の能登谷製材所跡付近が終点になります。

大正4年発行の地形図に能登谷製材所が記載されていますが、5万分の1なので、位置がちょっとズレているかもしれません。


助白井集落の先の、林道と軌道跡の合流点と思われる地点で、起点方向を撮影しました。

草木が茂っており、進むのは難しそうです。


終点方向を撮影しました。

この先は現林道が軌道跡となり、能登谷製材所跡まで進みますが、特に遺構を見つけることができませんでした。


狩場沢のレポートはこれで終了ですが、机上調査において、平内町内には、もう一つ地図には記載されていない民間の森林軌道があったことが判明しました。

…大正初期に至るまで伐採木の搬出は総て河水を利用していた。…(略)…大正五年やまいち(※)はこの広大な山林を処分した。…(略)…中央の資本家で…(略)…それぞれ権利を取得するや、画期的な伐採事業が開始された。
 先ず板割(現大和山水田地帯)に大規模な製材工場が設置された。次に華滝の奥地大毛無山山麓並びに三角山山麓から小湊駅間約二十粁の区間に森林軌道計画が成され、用地問題で難航が予想されたが、電光石火の勢いで用地買収が完了し、遂に軌道が敷設された。
 これに依って河流し作業は軌道運搬に変り、トロリーに馬を引かせ輸送を担当したのは外童子、松野木の荷馬車の人たちであった。  ※やまいち:町の資本家
 (平内町史上巻から引用) 

…又現中学校附近一帯沼館の南側は槻ノ木に続いて杉林で、中学校通りから裏側夜越山の土手づたいに外童子山と小湊駅を結ぶ森林軌道が敷設されていた。
 (平内町史上巻から引用) 


(この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。) 
平内町史に記載されている情報から予想した森林軌道の位置図です。

小湊駅から松野木、外童子、大和山・華滝(おそらく現在の不動滝)を経て、奥地へ進んでいたようですが、正確な敷設位置は不明です。

実際に現地を通ったことがありますが、ほとんどが舗装されており、特にこれといったものを見つけることができませんでした。

奥地まで行けば何か見つかるかもしれません。


この軌道が存在した時期については、以下のとおりです。

大正十年  製材所の設置、小湊駅に至る長距離の軌道が敷設され、馬引トロッコにて製品が搬出され、昭和の初期まで続く。
  (平内町史上巻から引用) 

小湊駅は主に松にして外童子、小湊附近より産し約三里の道を馬車軌道或は荷馬車によりて搬出さる…
(大正12年1月3日 東奥日報「鉄道による木材の趨勢(下)」から引用) 

 …通りへ出るとトロツコへ木材と木炭を積んで馬に牽かせてる馬鉄トロツコと云ふのと出逢った、通りがかりの若衆に訊いて見ると「停車場から山奥のカツチ(※)まで五里も六里もレールが敷かれてある」とのことだが…  ※カツチ:伐採地のこと。
 (大正13年5月6日 東奥日報「小湊より(下) 激戦地の春色を訪ねて」から引用)

大正10年から昭和の初期まで存在したようです。昭和の初期がいつまでなのかは分かりませんが、東奥日報の記事によると大正13年には確実に存在していたようです。

なお、小川功「不在地主による 遠隔地山林開発と森林鉄道 東津軽郡平内町の共栄土地専用軌道を中心に」には、平内町における森林軌道について、林業の歴史を踏まえて取りまとめていますので、興味のある方はご覧になってください。



(小湊駅から東方向を撮影)
 
(松野木から外童子方向を撮影)
色々調べたので早速現地調査へGO!……っとはならないです。細かい敷設位置の予想ができないので、もう少ししっかりと検討してから現地調査したいと思います。上の写真は2025年に近くを通りかかった時に撮影したものです。


市町村史や新聞記事などを調べていくと、地形図には記載されていない土木工事や鉱山用の軌道に関する記述や写真を見つけられます。もしかすると、ほかにも、かつて存在していたものの、忘れ去られた森林軌道があったのかもしれません。


( 線名 地図 )