(2025.11.16 公開)

 (この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。)
 川内森林鉄道
 青森県内の林道の名称に「森林鉄道」が付されていた線は3つあります。津軽森林鉄道、大畑森林鉄道、そして今回レポートする川内(かわうち)森林鉄道です。

 明治45年、川内貯木場から新田貯木場までの約6qの手押軌道から始まり、馬搬運材を経て、順次、本線・支線の距離を延長し、大正12年には蒸気機関車での運材が行われました。本線は川内貯木場から畑集落、湯野川温泉を経て湯野川上流のカモリ沢付近までの延長約20qとなっています。

 川内森林鉄道は運材だけでなく、奥地の住民の方々の移動や物資運搬手段としても活用されていました。しかし、自動車輸送の発展に押され、昭和45年に廃止されました。

 廃止されてから50年以上経ちますが、原作水上勉、監督内田叶夢の「飢餓海峡」をご覧いただくと、森林鉄道の当時の様子を垣間見ることができます。

 調査は2017年から2019年にかけて数回に分けて行いました。


川内川の河口からスタートです。

地図に記載していますが、大正時代には川内川左岸に安部城鉱山の専用軌道が敷設されていました。
 (この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。)


川内川河口、陸奥湾方向を撮影しました。

森林鉄道の起点はここから少し上流の川内貯木場です

森林鉄道で運ばれた木材を、ここから官船で搬出するため、貯木場から川沿いに搬出線が敷設されていましたが、その面影はありません


川内川上流を撮影しました。

川幅が広い河口ですが、かつては中州があったので、水中貯木場や陸揚げ貯材に適していたとのことです。


川内貯木場跡は現在下北森林管理署の事務所となっています。

ここが川内森林鉄道の起点ですが、ちょっと雰囲気を感じ取ることができませんでした。
  貯木場跡の周囲を確認しましたが、特に遺構を見つけることはできませんでした。


軌道跡は貯木場跡地から北上し、あぜ道や舗装道路となって進んでいきます。


ここまで特に遺構を見つけられませんでした。軌道跡は銀杏橋で川内川の左岸へ渡ります。
(この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。)


銀杏橋です。ここには、かつては立派なトラス桁橋が架けられていました。

この対岸付近の地名が新田なので、開業当初の終点であった新田貯木場は、この辺りだったのかもしれません。

上流から流されてきた丸太をここで引き揚げて貯材し、手押しトロリーで川内貯木場まで運材していました。


川内川の左岸へ渡った先は、県道から外れて川内川沿いに進みます。

新田貯木場から先は、宮城県古川小林区の鬼首林道で使用された古軌条を利用して敷設されていたとのことです。


 
安部城沢を渡る箇所に石垣の橋台が残されていました。なお、この沢を少し進むと、安部城鉱山跡があり、レンガの煙突などが残されているようです。

安部城鉱山は明治42年から本格的に創業を開始しましたが、大正12年に精錬事業が中止となり、短い期間ですが町は繁栄しました。一方で精錬所から多量の亜硫酸ガスをを含んだ煙が排出されたため、地域の樹木や農作物は被害を受け、枯死しました。被害木の整理伐採は10年を要することになり、川内森林鉄道は、この被害木の運搬にも活躍しました。


安部城沢を渡った先も軌道跡の空間が続いていました。 


 
     
  (季節は一瞬冬になりますが御了承ください。)

軌道跡は県道に合流し北上します。

和白沢を渡る箇所で下をのぞき込むと、怪しいコンクリと石垣を見つけましたが、遺構とは違うかな?


野平支線との分岐点である畑集落を経由して北上します。少しずつ見所が増えてきます。

 
(この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。)


  畑集落の入口です。軌道跡は左の県道をそのまま進みます。


 
畑集落の中心部です。左折すると野平方向へ進みますが、川内森林鉄道本線はこのまま直進します。

かつては野平支線との分岐点に信号所があり、運行する機関車の調整のため電話連絡を行っていたとのことです。
  近くの建物に、軌条が残されていました。


畑集落を過ぎてしばらくすると、県道は湯野川を右岸へ渡りますが、軌道跡は川を渡らず左岸をそのまま進みます。

ガードレールの手前を右へ進みます。


川沿いに軌道跡っぽい雰囲気がある空間が続いていたので、先に進みます。


   
土砂が崩れて斜面になっている箇所がありますが、頑張って進みます。   通ってきた箇所を振り返ると、路盤が石垣で補強されていました。


 
小さな沢を渡る箇所に、木橋が残されていました。   美しく一直線に延びる軌道跡、とても進みやすくなりました。


   
     
  今度はちょっと広い沢を渡ります。しっかりとした石垣の橋台が残されていました。


   
路肩には枕木が転がっており、軌道跡の雰囲気が出てきました。   再び一直線に伸びる軌道跡が続きます。遠くに何か見えてきました。


 
     
  今度はさらに大きめの沢を渡ります。石垣の橋台のほか、橋脚も残されていました。


     
     
    沢や斜面には橋桁の残骸やレールが落ちていました。


橋台と橋脚の位置が近すぎるような感じがしますが、どういった意味があるのでしょうか?


  沢を渡り振り返って撮影しました。さらば橋脚。


   
沢を渡った先は、石垣で補強された路盤が一直線に続いていました。


犬釘が付いていて、結構しっかりしている枕木も転がっていました。 


   
しばらく進むと、広場のような空間が現れました。とりあえずこの辺りで県道に引き返して進みます。


 
     
  石垣のすばらしさを感じていただくため、県道に戻り対岸から軌道跡を撮影しました。

ナントカ遺産になっても良さそうな感じがします。


   
上流方向から起点方向に戻って進み撮影しました。こちらにも石垣が見られました。


続いて湯野川温泉の入口です。軌道跡は左の空間を進みます。


 
少し進むと、かつての営林署の造林宿舎の前を通ります。宿舎のはしごには軌条が利用されていました。
なお、この宿舎には、「飢餓海峡」に出演された女優の左幸子さんが宿泊していたとのことです。 


   
湯野小川を渡ります。いい雰囲気の橋ですが、森林鉄道廃止後に掛け替えられたものと思います。左に見えている白い建物は日帰り温泉の濃々園(じょうじょうえん)です。

川内森林鉄道は、湯野川温泉の湯治客の足としても活用されており、森林鉄道開通後は日帰りの客が増加したとのことです。


軌道跡はちょっと寂しげな湯野川集落の中を通り、いよいよ山間地帯へ進みます。


途中の川を渡る箇所に怪しいコンクリの塊が落ちていましたが、遺構と関係ないかな?



(この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。)
県道は湯野川沿いに北上した後、西へ進路を変えて進みます。


 
軌道跡は、途中から県道の南側を進みますが、分岐点がよく分かりませんでした。県道の南側に入ってみると、それらしき空間がありましたが、これが軌道跡かどうかはちょっとわかりません。


しばらく県道を進むと、南側に耕作放棄地が表れます。この耕作放棄地の向こう側に軌道跡があるはずです。


 
耕作放棄地を突っ切って探してみると、予想どおり軌道跡らしき怪しい空間が見つかりました。西へ向かって進みます。


 
     
  地理院地図に記載がない小さな沢を渡る箇所に鉄橋が架かっていました。枕木も少し残されていました。


 
橋台も残されていました。また、よく見ると架け替え前の橋脚や橋台の周りの石垣も残されていました。


   
沢にはほとんど水が流れておらす、掛け替え前の木橋に使われていたと思われる金具が落ちていました。


 
沢には水を堰き止める石垣のようなものがあったほか、リヤカーらしきものがありました。地理院地図には、この付近は湯野川開拓との記載があるので、かつては人が入り、生活していたことがうかがえますが、ちょっと寂しい感じです。


 
橋を渡った先にも軌道跡は続いています。


 
しばらく進むと、またしても地理院地図に無い沢(下重兵衛沢)を渡る箇所に鉄橋がありました。苔むした枕木がいい感じです。


   
横から見ると先ほどの橋より長いことがわかります。
この橋と先ほどの橋は別日程で調査したのですが、最初は同じ橋だと勘違いしていました。(帰宅後に気がつきました。)


  そして軌道跡はまだ続きます。 


 
続いて上重兵衛沢を渡りますが、ここには石垣の橋台しか残されていませんでした。


軌道跡はまだまだ続きますが、いったん県道に戻って進みます。   


   
先に行く前にちょっと寄り道です。

大畑川沿いで伐採されたヒバについて、青森までの輸送期間を短縮するため、大畑森林鉄道ではなく、山を越えて川内森林鉄道で運材するという下北半嶋森林鉄道が計画されていました。そのルートは大畑側の重兵衛沢から、川内側の下重兵衛沢へ隧道で抜け、川内森林鉄道につなぐというものですが、実現はしませんでした。

写真のガードレールを越えた先を右へ曲がると、下重兵衛沢です。林道が続いているようでしたが、未成線なので調査は行いませんでした。その代わりに、計画の経緯などを過去の東奥日報で調べてみましたので、一番最後に紹介したいと思います。  


 
県道を経由して湯野川上流から回り込み、軌道跡を確認しました。 


     
軌道跡は丸太沢林道に到達します。先に進めなさそうに見えますが、そのまま林道を突っ切ると土管などの人工的な構築物が見られました。 


少し進むと開けた場所に出ました。

軌道跡はここで写真右方向にUターンし、S字で進んでいきます。川沿いはちょっと低い位置を進んでいたので、高度をとるため対応と思われます。


 
     
  ちょっとした掘割りとなって進みます。苔に覆われた枕木や犬釘が残されていました。


軌道跡の先に、先ほど突っ切った丸太沢林道沿いに、伐採された木材が積み上げられています。

もう一度、この林道を突き進みます。


 
林道を越えた先には盛り上がった軌道跡を確認できました。 


 
軌道跡の空間は再びUターンし、西へ方向転換して進みます。


県道との分岐点です。ここからは県道から離れて林道を進みます。

この辺りは広くなっているので、土場があったのかもしれません。


軌道跡はいよいよ湯野川上流の終点へ向かいます。  (この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。)


田ノ沢を渡る橋の下を見ると、橋台跡が残されていました。 


右に進むと終点のカモリ沢へ進む林道ですが、軌道跡はここを進まず、左へ進みます。

正確な軌道跡は、調査の帰りに気がつきました。


先ほどの分岐点の少し先の地点です。

写真右のススキの間の空間が軌道跡になります、…ってこんなの誰も気がつかないよ〜。

なお、砥石沢支線は直進します。 


 
しばらくすると空間が現れました。ここをどんどん進んでいきます。 


 
沢を渡る箇所に橋脚と、金具のついた橋桁の残骸がありました。よくぞ残っていてくれました。


対岸には、ちょこっとだけ橋脚が残されていました。  


 
沢を渡ってから起点方向を撮影しました。一直線に続く軌道跡の先に、対岸の橋脚がちょっとだけ見えるかと思います。
また、横から撮影すると、道床が盛り上がっていることが確認できます。


 
軌道跡は続きますが、しばらくすると林道に合流します。


 
ようやく終点付近のカモリ沢を渡る橋に到着です。軌条を利用した柱が残されていました。
軌道跡はまだ左方向へ続いていたと思われますが、少し進んでも何もなさそうなのでこの辺りで引き返しました。森林鉄道の終点としては、何かあっけない感じがしました。


 
なお、砥石沢支線の調査も行いましたが、本線との分岐点から500mほど進むと倒木のため進めなくなっていたので、引き返しました。


最後に、途中で紹介した下北半嶋森林鉄道計画の経緯について、東奥日報の記事から紹介したいと思います。

〔明治42年5月25日 森林鐵道工事の昨今〕
川内より大畑に至る間に於て森林鐵道敷設の計畫ある由は既報せしが一週間前より山林技手佐藤清蔵仝石戸房壽の兩氏仝方面へ出張し地形調査中なりと
詳しい経由地が記載されていませんが、大畑森林鉄道、川内森林鉄道が開通する前の、少なくとも明治42年5月には計画があった、ということには驚きです。

〔明治42年7月8日 下北半嶋森林鉄道に就て〕
青森大林區署にては昨年来下北半嶋大畑、川内間に森林鉄道敷設の計畫あり既に豫測も済みたれば今後は設計をなし大臣の認可を得て實測に着手すべく遅くも明年の雪消えまでには設計を終はるべしといふ

〔明治42年11月9日 下北森林鐵道中止〕
青森大林區署にて下北郡大畑より川内に達する下北半島横断鉄道を敷設すべしとした今春来測量中なりしが今後津軽半嶋鉄道の成績極めて良好ならざる限り中止する方針なるやにて現今特に鐵道敷設の為めの測量は既に中絶し居れるが仝郡今後のヒバ産額は年々十万尺〆を下らざるべきを見込なれば仝地方の改發次第に依りては單に仝間へ軌道を敷設しトロコを以て材積運搬を為し需要に應ずるととなるべきかと云ふ

〔明治42年12月2日 山林鐵道〕
川内村より大畑村に通ずる山林鐵道敷設せんとし目下測量中
大臣の認可を得て測量を進めていたところ、「今後、津軽半島鉄道(津軽森林鉄道)の経営成績がよほど良好でない限り中止」ということになり、測量も中断されてしまいました。しかし、その数ヶ月後の記事では測量中となっており、津軽森林鉄道の経営成績が確認できたっていうことなのでしょうか?

〔大正2年11月5日 川内村だより〕
森林鐵道敷設豫定 大林區署にては來年度大畑方面より川内港に達する森林鐵道敷設の計畫なれば竣工の上は一層當村の發展を來すべし 
改めて計画が存在することが記載されています。なお、ここでは詳しく紹介しませんが、新聞の他に、大正2年3月「川内事業区施行案説明書」の中の「第六章 将来ノ施業方針」や、大正3年の青森大林區署の起案「下北半島各事業區檢訂施行按施行方針通説附箋照會ニ對シ回答ノ件」に添付されている「大畑川内間森林鉄道計画書」でも計画の存在を確認することができました。

〔大正9年7月16日 川内だより〕
大佐鐵道問題 大佐鐵道は国防林産物集散購買○拓等の諸点について海岸を迂回する大間鐵道より優なるべく既報新聞紙上に載せたる津軽海峡のトパカレーと題し詳細説○せられたるは一層吾人の慈を強ふするに足る 仄聞する處によれば政府にて海岸線大間鐵道を採決せんと欲するは一に大畑の林材輸出を主用たるが如きも本年大林區署に於て計畫せられ着々其の結につきつつある森林鐵道は大畑と本町を連絡するの未来を有する似たり 果して然らば更により以上海岸迂回線の望むべからざるに至るなきか

(この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。)
大正時代に入っても計画の記事掲載は見られました。記事に記載されている大佐鉄道は、大畑から西へ進み山を越えて下北半島西部の佐井へ至る鉄道計画のことと思われ、海岸沿いを北上して下北半島北部の大間を目指す計画の大間鉄道とは異なります。

この記事では、政府は木材輸送のために大間鉄道計画を採用しようとしているが、国防・林産物の集散・購買などの点から考えると大佐鉄道計画の方が優れており、さらに青森大林区署で計画している大畑と川内を連絡する森林鉄道ができれば海岸迂回の大間鉄道計画は不要になるのではないか、と主張しているようです。 

〔大正10年12月12日 森大林區と本縣下の森林鐵道〕
(略)
利用政策上既設森林鉄道を延長すると共に之が新設を計畫してゐる。目下明年度の新事業に繰り込まれるものを擧げて見ると南部方面では下北郡大畑國有林奥部から大畑部落に至る鐵道延長十八哩の新設が其の一で、此の工費は四十萬圓である。此の線は將来田名部町まで延長する希望でゐるが之は目下調査中である。(略)
以上の工事の内大畑の鐵道十八哩の新設は其の主なるものであるが、同線はヒバ八萬石闊葉樹二萬石計十萬石の利用の爲めに設けられるものである。以上の木材を運搬するには田名部まで延長するのは海陸輸送の上より見ても將た又製材の上より見ても最も有利である。此線は豫定線として研究されているが、何れは實現を見るに至るであらう。一説には大畑より川内まで延長し本年完成した鐵道軌道に連結すると云ふのも問題になり之も研究中である。(略) 
最後の記事には、大畑から川内までの下北半嶋森林鉄道の予定について記載されているだけではなく、大畑からむつ市の中心部である田名部まで延長する構想があったことが興味深いです。この構想は森林鉄道として実現はしませんでしたが、国鉄大畑線の開業という形で実現しました。

以上のように、下北半嶋森林鉄道の計画は明治時代から存在していたことが確認できました。当時はヒバ材が地域産業の重要な産物であり、その販売、利活用の効率化を考えて計画されたものでしたが、結局、実現することがなく残念です。



1回のレポートで川内森林鉄道を仕上げたほか、下北半嶋森林鉄道についても記載したため、ちょっとボリュームが多くなってしまったかな?

自宅からむつ市まで約3時間かかり、数回行った調査は大変でしたが、いろいろな遺構を発見できて満足しています。

調査を効率的に行うため、当初は、前日夜に下北半島入りし寝袋で車中泊、翌早朝から調査をしていたのですが、車中泊は寒くて眠れず調査に支障が出てしまいました。そこで、前日は自宅で早めに寝て早朝3時に出発し、下北到着後7時から調査に変更しました。おじさんなので朝早く起きることは余裕なのだ。

今後もマイペースで下北半島の森林鉄道・軌道をレポートしていきたいと思います。

( 線名 地図 )