(2007.8.11公開) (2009.10.17追記) (2010.10.19追記) |
津軽森林鉄道 野木和〜内真部間の支線 この区間にも複数の支線が存在していたようですが、これは?という遺構をほとんど発見できませんでした。レポートの内容もあまり面白くないと思いますが、ご了承下さい。 なお、調査の時期は2002年〜2007年となっています。 |
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)、数値地図25000(地名・公共施設)、数値地図250mメッシュ(標高)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第324号) |
1 瀬戸子支線 瀬戸子支線は昭和7年から昭和37年頃まで開設していたと思われます。途中から分岐していた瀬戸子双股分線は、牛馬道を改良し昭和33年から昭和38年頃までのわずが5〜6年間しか開設されていなかったようです。 瀬戸子支線は瀬戸子川の手前で本線から分岐しますが、分岐点はよくわかりせんでした。 写真は瀬戸子川沿いに進む軌道跡です。 |
林の中を進んでいきます。 現在の瀬戸子林道は、瀬戸子川対岸の別の道となっており、こちらの道はメインではなさそうです。 |
しばらくすると瀬戸子川を渡り、メインの林道と合流します。 この先も瀬戸子川沿いに進んでいきます。 昔の地図では、この先に現在の林道から離れ川を渡る箇所があるようなのですが…。 |
しかし、遺構を発見することができませんでした。 右に瀬戸子支線、左に瀬戸子双股分線?がさらに続いていたと思われますが、どちらも調査は行いませんでした。 |
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)、数値地図25000(地名・公共施設)、数値地図250mメッシュ(標高)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平19総使、第103号) |
内真部付近には、内真部支線、白滝支線、清水支線の他に、点線の林道にも軌道があったようです。 |
2 奥内林道 この林道はいつから存在したかは不明ですが、大正6年には敷設の計画があり、昭和3年には存在していたようです。 しかし、昭和8年度内真部第一事業区施業案説明書によると、軌道として「奥内線」の記載はあるものの、「現在軌条ヲ取外セリ」と早くも廃止され、その後は牛馬道となったようです。 写真は津軽森林鉄道本線と林道との分岐点です。 |
しばらくは水田の中を進んでいきます。 現林道は左にやや下って進みますが、軌道は画面右側を水田沿いに進んでいたのではないかと予想します。その根拠は次の写真をご覧下さい。 |
しばらく現林道を進むと、右上に平地のようなものが存在するので、そこに軌道があったのではないでしょうか。 ただの森林管理のための平地かもしれませんが… |
途中に間伐展示林の看板がありました。 森林鉄道本線は現在農道になっていますが、この看板では「旧森林軌道」と記載されています。 しかし林業に関わる人でなければ分からないのでは…。 ちなみに一番右に記載している道は国道280号バイパスで、そこから分岐している道が奥内林道です。 |
林道は奥内川沿いに進みますが、その先は、普通の林道で特に面白い箇所はありませんでした。 |
しかし、途中に怪しげな木柱?を発見しました。 3つ並んでいるように見えるので木橋の橋脚跡か?川岸の補強か?それともただの枯木でしょうか? このような発見は結果的に軌道と関係なくても夢がふくらみます…っても私の自己満足ですが。 |
3 清水支線 この支線は本線から津軽線奥内駅付近の旧土場までの約1.8qで昭和9年に開設されました。 写真は国道280号バイパスから県道2号を撮影しました。軌道跡はほぼ県道となっており、右の煙の出ている地点から写真手前のJR津軽線奥内駅付近まで続いていたようです。 |
撮るべき写真がないので、歴史を紹介します。 清水支線は、地元民の薪炭材の運搬や内真部参考林の来客案内にも利用できるように昭和2年頃に工事が認可となり、軌条も準備されました。しかし、部落の政争が激しく、用地問題が収まらず中止となり、軌条は他へ転用となりました。その後、津軽線の工事が始まり、奥内に駅ができることに決定したことから、清水支線の敷設についても地元民が前向きになり、昭和9年に開設されたとのことです。 |
4 内真部支線 内真部支線は森林鉄道本線とほぼ同時期の明治41年から昭和44年までの開設となっています。 写真は内真部川左岸の本線との分岐点と思われる地点の写真です。 電柱沿いに県道2号が続いており、内真部支線もここを進んでいたと思われます。 |
車からでも簡単に発見できる遺構として、眺望山登山口手前の内真部川を渡る箇所に橋脚跡があります。 なお、支線跡はほとんど県道になっており、途中で遺構を見つけることができませんでした。車で移動しながらの調査でしたので、ちゃんと探せば何かあるかもしれません。 |
橋脚はこのような感じで、おそらく内真部支線の遺構と思われます。 へこみの部分に橋桁やプレートガーダーがはまっていたのでしょうか? たしか、両岸に橋台も残っていたと思います。 |
眺望山登山口を越えしばらく進むと、軌道跡は県道からはずれて母沢(もさわ)林道へと進みます。 |
なお、県道との分岐点に石碑があります。 右は森林鉄道に係る職務での殉職者を讃える殉職碑で、大正11年に青森大林区署有志の義捐金で建立されたものです。碑には9名の殉職者の名前が刻まれています。 左は小山森林主事の殉職記念碑です(詳細は調査中)。 右側の殉職碑は、以前は本線と内真部支線分岐点付近の内真部保線詰所にあったそうですが、昭和50年に眺望山自然保養林(当時からこの場所かどうかは不明)に移動したとのことです。 |
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左側の殉職碑は、以前は母沢林道の終点付近にあったようです。 息子と一緒に手を合わせ、先に進みました。 |
母沢林道では特に遺構を発見できませんでした。 眺望山への登山道はいくつかあり、この付近からも登山が可能です。 |
さらに先に進むと広場となりました。この付近には砂川学術参考林があります。 先にも進めそうですが、遺構が無さそうなので調査はしませんでした。 この写真を撮影している時、車の窓を開けっ放しにしていたためアブが大量に進入し、当時3歳の息子が「ウギャー」っと叫んで大変でした。 |
5 白滝支線 白滝支線の開設時期は資料により異なりますが、昭和17年発行の国土地理院地図には既に記載されていました。 写真は内真部支線との分岐点です。現在でも木材を搬出しているようです。 |
林道の途中には伐採した跡があちこちにありました。 |
現在の林道が軌道跡と思われますが、林道と反対の川の対岸にこのような平地がありました。 かなり怪しいのですが…ただの作業道でしょうか? |
林道をさらに進むと車では進めなくなります。 2002年の調査はそこで終了したのですが、何かの資料で、川を渡る木橋があるとの記載があったので、2007年に自転車でその先へ進んでみました。 |
6 穴川沢林道 昭和3年の管内図によると、白滝支線の分岐点の先にも軌道があったようです。しかし、特に遺構はなさそうでしたので途中で引き返しました。 なお、この先には「穴川沢ヒバ林成長量試験林」があります。 |
7 眺望山 内真部支線は、木材の運材だけでなく、眺望山(海抜高143m)への視察者や観光客の輸送にも利用されていたようです。 そこで、軌道があったわけではありませんが、3歳の息子と眺望山に登ってみることにしました。 登山口はいくつかあるのですが、県道沿いの管理棟がある登山口(白滝支線分岐近く)から出発しました。 |
眺望山はかつてはたびたび山火事にあい、焼山と呼ばれていましたが、大正7年に、当時の岡本山林局長がこの山頂からの陸奥湾の眺望のすばらしさに感嘆したことから、眺望山と呼ぶようになったそうです。 山道はヒバ林の中を進み、林床は暗くなっています。 歩きやすい山道でしたが、アブやカなどの虫が時々まとわりつき、息子が「ムシ、イヤー」と騒ぎ、しまいには「おんぶー」と言い出したので、時々おぶって歩きました。トホホ… |
40〜50分くらいで山頂につきました。 大正当時は見晴らしが良かったようですが、現在は木々の生育が良いため陸奥湾を眺めることはできません。 汗だくの息子は水筒の水を全て飲み干し、私の分は残っていませんでした。トホホ…。 |
山頂には展望台があるのですが、現在は老朽化のため使われていません。ちなみにこの展望台に登っても眺望はそれほどよろしくないとのことです。 (※ 2010年4月に新しい展望台ができたようです。) 息子が「見るだけー」としつこいので、近くに来てみました。 やる気満々の息子ですが、もちろん階段は登らせませんでした。 |
この展望台の骨組みをよく見てみると、なんと一部に軌条を利用していました。 こんなところに軌条が活用されているとは驚きでした。 息子の行動に感謝です。 |
なかなか遺構を発見することができませんでした。 そんな中でわずかでも関係のありそうな看板や軌条を発見したり、机上調査で関係資料を見つけながら、当時の姿を思い浮かべながら頑張っております。 たいした発見がなくても調査した箇所に関しては机上調査の結果等を含めて発表していく予定ですので、ショボくても勘弁してください…トッホホ…。 |