(2015.7.5公開)

この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。
津軽森林鉄道

G 六郎隧道(今泉側)

六郎隧道を過ぎると下り坂となり、貯木場があった青森に向かって勾配が上がる逆勾配区間となります。

この区間は逆勾配であるだけではなく、地盤が軟弱で悪かったため、開業当初は蒸気機関車が力を十分に発揮できず、運材に苦労したそうです。

初回調査は2002年で、その後、数回追加調査を行っています。


県道12号のやまなみトンネルを抜けて、トンネル西口を撮影しました。

森林鉄道は六郎隧道で峠を越えて、県道の北側(写真左側)を通っていたようです。

トンネル入口に駐車場があるので、そこに車を止めて六郎隧道跡を探索しました。


軌道は沢沿い進んでいたようです。しかし、土砂の堆積などで軌道跡は判然としませんでした。


六郎隧道跡を目指し、上流へ進むと堰が現れました。

調査当初(2002年)は、隧道は既に埋まっていると判断し、ここであきらめて引き返しました。


念のため、2014年に堰を越えて調査しました。

やはり堰には土砂がたまっており、隧道入口や軌道跡は埋まっているようです。

隧道入口はこの写真の真下と思われます。残念です。


遺構は見つかりませんでしたが、六郎隧道に関する情報をいくつか調べましたので紹介します。

六郎隧道は、明治39年11月、津軽森林鉄道のなかでは相ノ股隧道とともに一番最初に工事が始まりました。当時の新聞記事(東奥日報)によると、明治40年9月には既に完成(貫通?)していたようです。そして明治41年7月に、蟹田〜今泉間が部分的に竣工し、全線開通前に試運転が行われました。

隧道の構造は、延長454m、高さ3.6m、当初は木造でしたが、昭和30年にコンクリート巻となりました。

「八十路の横顔:青森営林局80周年記念特集号」に、森林鉄道に便乗した者の話が掲載されています。燃料の石炭の質が悪いときには薪を使用しており、「…六郎隧道で夜機関車に便乗したことがあったが煙突から出る火の子(粉)であたり一面真赤になつた時には水をかけられたように悪寒に襲われました。」とのことです。

このように、隧道内は蒸気機関車の火の粉が広がるため、これが木材支保工に燃え移って火事になったことも数回ありました。下記はその記録です。

 【大正11年頃】六郎隧道内で火災。トンネル入口を密閉し消火。
 【昭和初め頃】六郎隧道西口寄りの木材支保工が燃えて崩壊し、上部5〜6間が穴になった。
 【戦前】六郎隧道西口から煙が出ており、機関車が危険で通れないため、中里に列車をおいて、徒歩で山越えして東口から中に入り燃えている場所を確認して青森に連絡した。

大正11年頃の「トンネル入口を密閉し消火」とありますが、可能なのでしょうか?



今泉側

六郎隧道側

県道に戻って今泉方面へ進みます。

@地点です。県道沿いに軌道跡は続いており、道路管理施設付近にコンクリート橋台が残されています。


軌道跡は県道の北側に続いています。

盛り上がった道床の下には、排水のための管が見られました。


今泉方向を撮影しました、写真ではわかりにくいですが、県道北側(写真右側)には盛り上がった道床が続いています。

軌道跡が県道になったとも考えられますが、県道12号が本格的に整備されたのは昭和36年で、森林鉄道が廃止される前です。昔の国土地理院の地図を見ても、国道と森林鉄道が併走しているのが分かります。



今泉側
  
六郎隧道側

A地点です。鍋越沢を渡る箇所にはコンクリートの橋台が残されていました。

今泉側の写真はちょっと木がじゃまですね。左に見えるのは県道の「今泉3号橋」で、今泉に進むにつれ橋の数字が増えていきます。

六郎隧道側の橋台跡をよく見ると、笹藪が刈り取られています。橋台などの遺構を見やすいように草刈りを行っているとのことです。


今泉方面へ進みます。

県道の北側には、まだまた軌道跡の道床が続いています。


B地点の今泉4号橋手前です。

写真右側の軌道跡の脇には鍋越沢が流れているので、ちょっと沢の方へ降りてみました。


すると、森林鉄道の築堤の前に木柱が並んでいました。

当時はどのようになっていたのでしょうか…?柱の間に木の板を設置し、川の流れから築堤を守っていたのでしょうか。


逆方向からも撮影しました。

初めて見たとき、思わず「お前たち…」とつぶやいてしまいました。

まだまだ頑張れよー!


今泉第4号橋の軌道跡は、コンクリートの橋が残っていました。

ちょっと立派な感じで、森林鉄道の軌道跡では無いようにも思えます。


そのコンクリート橋を県道から見ると、草木が生えており、とても橋には見えません。

軌道跡の延長上に位置しているので、やっぱり森林鉄道の遺構と思われますが、どうでしょうか?破損した木橋を修復してコンクリート橋になったのかもしれません。


県道北側には軌道跡はまだ続きます。軌道跡右側に見えている木柱も遺構なのかな?



今泉側

六郎隧道側

C地点の今泉第5号橋です。ここにもコンクリートの橋台が残されています。


2002年に今泉第5号橋から六郎隧道方向を撮影しました。

県道北側(写真左側)に軌道跡があるのですが、ちょっと分かりませんね。

最初にも説明しましたが、この区間は逆勾配となっており、六郎隧道に向けて坂道になっています。この写真でその様子が少しでも分かっていただけると思います。



今泉側

六郎隧道側

D地点の今泉第6号橋です。ここにもコンクリートの橋台が残されています。



今泉方面の県道北側には、まだ軌道跡の道床が見られますが、特に遺構を見つけられませんでした。


E地点付近です。六郎隧道方向を撮影しました。

この辺りで軌道は県道を渡って南側(写真右側)へ移動していきます。


今回紹介した区間を含む蟹田〜今泉間には、昭和初期に森林鉄道とは別に道が整備されていましたが、森林鉄道の六郎隧道のある峠部分の道は、急勾配のため馬車の行き来ができないほか、人の通行も困難で廃道同然となっていたそうです。第二次大戦前には、木材輸送などのため県道として再整備が行われましたが、昭和18年頃工事は中断されました。

戦後には津軽半島西側と東側の間で米や焼干イワシなどの物資のヤミ取引が行われており、この区間は「ヤミ街道」と呼ばれていたとか。当時の新聞記事によると、「道路傾斜が急なため、自動車はもちろん人でも通ることが容易ではなく殆ど現在は森林鉄道の軌道が利用されている」とのことです。

昭和25〜26年頃、道路の幅を拡張するとともに、峠部分の急勾配を切り下げる工事を開始し、昭和36年にようやくバスやトラックが通れるようになりました。

森林鉄道と並行して道路の整備が行われたので、軌道跡がそのまま道路になったわけではありません。加えて、木橋より壊れにくいコンクリートが使用されていたため、他の区間や支線に比べて軌道跡や遺構がしっかりと残っていると思われます。


コンクリート橋台は多く残されていましたが、その他の遺構をほとんど見つけることができませんでした。ちょっと味気ない感じがしますが、県道の脇に残るコンクリート橋台は、一般市民にも簡単に確認することができる遺構であるとともに、津軽半島に森林鉄道が確かに存在していたという貴重な証拠であると思います。

でも、個人的には山中にひっそりと残されているショボい橋脚跡1本のほうが愛おしいです。

F 相ノ股隧道〜六郎隧道(蟹田側)へ        H 今泉〜喜良市へ



( 線名 地図 )