(2021.9.27公開)

(電子地形図(国土地理院)を加工して作成)



津軽森林鉄道

H 今泉〜喜良市(きらいち)

津軽半島の中山山脈を越えた後、南下して終点である喜良市へ進みます。

この区間にはほとんど遺構を見つけることができず、内容がショボくなってしまうので、津軽森林鉄道の旅客利用の話を少し盛り込んでみました。

また、調査は2002年から数回行っていますが、調査から時間が経過しているため、最近、写真を取り直したものもあります。


  県道12号(やまなみライン)と併走していた森林鉄道は、県道から離れ南西に進みます。


ちょっとわかりにくいですが、県道から離れてすぐに、水路を渡る箇所でコンクリートの橋台のようなものが残っていました。


平坦な水田地帯を進み、 この先にある今泉川を渡ります。


今泉川を渡る箇所に橋跡を見つけることはできませんでしたが、川の南側の水路には小さな橋が残っていました。


 
     
 


農地への通路として使用されていたようで、橋桁の上には歩けるように木片が並べられていました。

その一部には枕木がそのまま使われており、犬釘も確認できました。 


  橋の先も、農道となってひたすら水田の中を進みます。


 
その先にも、橋台のような埋まった構築物や、水路を渡る箇所に小さな橋台が見られました。 


農道はだんだん進みにくくなってきました。

ここでは無理をしないで、引き返して別ルートで進みます。
 


  県道から回り込んで今泉集落の東に来ました。

ここには、機関車への燃料補給や給水のために設置された今泉停車場がありました。しかし、遺構はなく、当時の面影はありませんでした。

また、ここは相内支線との分岐点でもあり、蟹田、喜良市の両方向から進めるようにデルタ線になっていたのですが、その跡も分かりませんでした。


青森方面を撮影しました。正面に見える家の向こうが今泉停車場だったと思われます。

撮影中に近所のおじさんがやってきたので、森林鉄道について聞いてみると、「芦野公園(金木にある桜の名所)まで、運材台車に箱を設置し、有料で乗せてもらった。」、「停車場には、薪を蒸気機関車に供給するための係が5〜6人ほどいて、近くの山から薪を取ってきていた。」などの話を教えていただきました。


机上調査では、森林鉄道開業当時の今泉停車場の様子が分かる資料を見つけました。

 相内、脇元、小泊の小学校では先生が生徒を引率して見物にやってきた。毎日々々近郷近在から見物人が押しよせるので、見物人目当てにソバ屋やモチ屋を開いて儲けた人もいたそうた。ある商店では絵ハガキまで発行した。見物人が線路に集まって動かないので、機関士が困ってピューッ!と汽笛を鳴らす。見物人はびっくり仰天、「耳さけるじゃ!」とあくたいをつく始末であった。
 米国製のボウルドウインとライマーという蒸気機関車だが、燃料には雑木を小割りにした薪を使っていた。だから停車場には大きな薪小屋が建っていたそうだ。 
 【船水清「わがふるさと4」から引用】

津軽森林鉄道開設当時は、青森県内には東北本線、奥羽本線など、主要都市にしか鉄道が通っていなかったので、地方に蒸気機関車が来たことは相当珍しかったに違いありません。 


今泉停車場跡からは進路を南に変え、中里を経由して金木を目指します。


この水田の中をまっすぐ進んでいましたが、軌道跡はなさそうです。

この先も金木までほぼ直接のため、地図は省略します。
 


  少し南下すると、右前方遠くに岩木山が見え、農道と水路が現れます。

この農道や水路が軌道跡と思われます。遺構は見つけられず、特に面白くありません。


中里の北側で、国道339号と合流します。

国道の西側(写真右側)を通っており、現在は農道と水路になっています。


しばらくすると、国道は津軽鉄道をオーバークロスし、写真左方向にそれていきますが、森林鉄道跡は国道からから離れ、津軽鉄道に沿って進みます。


津軽森林鉄道は津軽鉄道沿いに南へ進みます。
(言い方が紛らわしいですが、御了承ください。)

この水路と農道が森林鉄道跡です。水路の水は少なかったのですが、結構広くて落ちたら怖いので注意が必要です。

左に見える建物付近が、津軽鉄道の大沢内駅です。


津軽森林鉄道は、戦後、地域の足として利用されていた時期がありました。

ここ津軽鉄道大沢内駅は、津軽森林鉄道との乗り換え駅だったので、遺構がないか確認してみました。 



(国土地理院撮影の空中写真(1948年撮影)を加工して作成)
昭和23年の空中写真です。

津軽森林鉄道沿いには駅舎らしきものは見当たらないので、乗換場所は不明です。簡易的なホーム等の設置はなく、どこかで停車して乗り換えたと思われます。

大沢内駅から森林鉄道に到達するには、
駅の南側を線路沿いに進み、西に向かう道を利用するか、ホーム北側から延びる道を利用する方法が考えられます。

個人的には駅北側の道が怪しいと思ったので、ちょっと調べてみることにしました。


大沢内駅を南側から撮影しました。 

先ほど通ってきた津軽森林鉄道跡は駅から西へ約50m離れており、写真には写っていません。


大沢内駅ホーム北側です。

空中写真をみると、駅北側から北西方向に道のような跡が見られました。

乗り換え客はホーム北側から下りて津軽森林鉄道の方へ歩いて行ったのかもしれません。線路の左側、枯れ草が途切れている緑の部分に怪しいくぼみがありました。


回り込んで線路向こう側から大沢駅ホームを撮影しました。

柵の向こうに見えているのがホームです。柵の間にくぼんで斜面のようになっているのが連絡通路だったのでしょうか。


連絡通路らしきものが続いていた方向を撮影しました。農地の向こうの黒と白の部分は、先ほど通ってきた津軽森林鉄道跡の水路です。

しかし、すでに通路はなく農地になっており、結局遺構を見つけられませんでした。


遺構を見つけられなかったので、戦後に行われた津軽森林鉄道の旅客利用について調べてみました。

  〔足の悩みに森林鉄道 西北で利用〕
北郡相内、小泊、脇元、内潟、中里、西郡十三の六ヶ町村では二十八日青森営林局管内の中里−小泊間(三十粁)の「森林鉄道利用懇談会」を開き「軌道利用期成同盟会」を結成した。その事業は津鉄大澤内駅を起点として上高根、薄市、今泉、相内、磯松、小泊の八ヶ所に駅を設け、一日四往復乃至は三往復の定期運行をなし創業は遅くも八月から開始、一般旅客及び関係町村から生産される諸物資の輸送にも役立たせることになった。会長は代議士津島文治氏、副会長は三和精一氏である。
 【東奥日報 昭和21年7月1日から引用】
 〔中里、小泊間森林鉄道に便乗出来ます〕
北郡地方民待望の中里、小泊間森林鉄道便乗運動は遂に功を奏し愈々九月一日から実施することになった。運行時間は脇元午前七時と大澤内午後二時の一往復だけだが脇元から朝発車するとそれが五能線五所川原駅発下り十二時三十八分に接続するし、同駅午後一時発の津鉄列車で発車すると脇元へは午後三時到着する。便乗車は青森営林局の親心によって三両接續される。
  【東奥日報 昭和21年9月1日から引用】


 (電子地形図(国土地理院)を加工して作成。関係ない路線は省略。)
新聞記事を参考に旅客利用された区間を緑色で示しました。

津軽森林鉄道の正式な旅客利用については、戦前にも何度か要望がありましたが実現されませんでした。

終戦後の交通難のため、ようやく実現することとなり、大沢内〜脇元間での運行が始まりました。大沢内から今泉は津軽森林鉄道本線、今泉から相内までは相内支線、相内からは磯松林道を利用していました。(磯松林道は脇元集落までは敷設されていなかったので、運行は旧脇元村の磯松集落までと思われます。)

昭和21年6月の計画段階では小泊まででしたが、運行開始時には脇元(磯松)までとなっています。磯松から小泊間は平地ではないので、旅客利用は見合わせになったのでしょうか?

終戦後、バス不足でこの地方の人たちは大変困った。そこで森林鉄道に便乗させてもらうよう、利用組合をつくって営林局に頼んだ。これが許可されて、金木〜相内間に無蓋のトロを連結してくれた。ただし「運行中事故発生するもその責に任ぜず」という条件つきであった。だが、そうもいかぬので、屋根のある客車三両、腰掛け付き五両を連結して便宜をはかった。これは交通状況が緩和されるようになったので、昭和二十七に廃止になった。   
   【船水清「わがふるさと4」から引用】

このほかの資料にも記載がありましたが、内容はほぼ同じででした。運行区間が新聞記事と異なっており、「金木〜相内」となっています。金木のどこで乗車できたかの記載がないのですが、金木駅の北側にあった貯木場から乗れたのかな?



(電子地形図(国土地理院)を加工して作成)
大沢内駅から水田地帯を南下し、五所川原市金木町へ向かいます。


五所川原市金木町の西部にある商業施設を過ぎた地点で撮影しました。

本線は直進します。ここで金木西貯木場連絡線が水田に沿って左へ分岐します。


金木川を渡った後、進路を東へ変え、県道2号で津軽鉄道をアンダークロスして進みます。

このまま県道をまっすぐ進むと、峠を越えて津軽半島東の内真部へ行くことができます。津軽森林鉄道は当初、この峠越えが計画されていました


しばらく進み、県道195号と交差します。この辺りが喜良市停車場跡(喜良市貯木場)と思われます。

明確に位置が記載されている地図を見つけられなかったのですが、昔の航空写真からこの辺りと判断しました。交差点の左側には現在も製材所が営業しています。

本線はこの辺りでまでですが、この先は喜良市川支線が敷設され、山奥へと進んでいました。


最初の調査から約20年、ようやく津軽森林鉄道本線のレポートを完成させることができました。当初はレポートなんてすぐに終わると思っていたのですが、文章力のなさや作成モチベーションの低下などで、時間がかかってしまいました。

現地調査も机上調査もとても楽しいのですが、まとめるのにはものすごく労力が必要です。支線や下北方面など、まだまだレポートすべきものが残っていますが、引き続きマイペースで進めていきたいと思います。


               G 六郎隧道(今泉側)へ 

( 線名 地図 )