(2006.7.1公開) (2009.10.17一部追加) |
津軽森林鉄道 常家戸沢線 全国各地の森林鉄道のホームページを見ると、橋、隧道、レールなど様々な遺構が残っており、うらやましいなぁ…と思っていましたが、青森県でもようやくそれらしい遺構を見つけることができ、ちょっと安心しました。 調査は2003年と2006年に行いました。2006年は私の通勤用ママチャリが活躍しました。 ※ 点線部分は追加調査で修正しています。 |
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この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)、数値地図25000(地名・公共施設)、数値地図250mメッシュ(標高)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第120号) |
1. 2003年の調査 常家戸沢(じょうげどさわ)線は、喜良市(きらいち)を起点としている喜良市川支線から分岐します。 写真のように事業所?(プレハブ小屋)があり、その地点が常家戸支線の起点となっています。 喜良市川支線は写真中央を左に川沿いに進みますが、常家戸支線は中央の笹を進み川を渡ります。 |
いきなり木橋が残っており、びっくりしました。しかもまだ結構しっかりとしています。 津軽森林鉄道を調査していて、青森〜蟹田間にある支線では、ほとんど遺構を見つけることができなかったので、うれしい限りです。 ちなみに、現在の林道はこの場所より上流で川(母沢)を渡ります。現在の国土地理院の地図では、おそらくそれが修正されていないので最初は混乱しました。一生懸命橋の跡を探したのですが、なかなか見つからず、帰りにようやく発見できました。何回付近を往復したことか…。橋の入口部分がやや盛り上がっており、草や笹が繁茂していたことも発見を困難にさせていました。 |
川に入って上流から撮影しました。 調査の時は長靴は必須ですね。私は普通の長靴と、田植え用長靴の2つを使っていますが、滑りやすく、コケそうになったことが何回もありますので、ちゃんとした長靴(釣り用のやつとか?)を履いた方がよいと思います。 |
この写真は秋に撮影したものです。夏は草が多く、撮影もうまくできなかったので、再び訪れました。 軌道廃止後も歩道として使われていたのか、板が渡してありました。 左の写真は、川を歩いて反対側へ行って撮影しました。 軌道跡はこちら側にも続いていました(写真とるの忘れた…)。 |
下流から撮影しました。秋は水量が少ないので、移動範囲が広がります。 それでも、撮影技術がないので橋全体をとらえることができませんでした。 現地ではもっと素晴らしく見えます。 |
現在の林道は約500m進んでから母沢を渡ります。 ガードレールがある箇所が橋です。 軌道跡はガードレール先のカーブ付近の右側から合流します。 ちなみに喜良市川支線は川を渡らず母沢沿いを進み(写真左方向)、木違沢線は林道と常家戸沢線の合流点付近を写真左方向に進んでいきます。 ※カーソルを合わせると、軌道跡が表示されます。 |
軌道跡と現在の林道との合流地点です(右側の道が林道)。写真は橋方向を振り返って撮影しました。 道床がやや盛り上がっていて軌道跡と分かります。 この写真は春に撮影したのですが、夏は草が繁茂していたせいか、全く軌道跡に気づきませんでした。 この先は常家戸沢沿いに進みます。 |
母沢と常家戸沢との分岐点付近で、枕木とレールを発見しました。 これらの遺構は常家戸沢線の物ではないかもしれませんが、この先にも何かあるのでは、と期待できます。 |
そして常家戸沢沿いにしばらく進むと… なにぃー! これを発見した時は感動でした。 枕木にレールが付いたまま残っているなんて! 実は帰りに、何か落ちていないかと車を徐行させながら沢沿いを見ていたところ、偶然発見しました。 なお、車で徐行しながら調査するのは、前後からの車の通行のじゃまになったり、沢へ転落する危険があるので注意しましょう。 |
このレールは沢沿い?というか、ほとんど川の中にありました。 ちょうどこの箇所から数m部分が軌道が見えていました。端のほうはそのまま土の中へと消えていましたので、まだ軌道が埋まっているかもしれません。 軌道は廃止後にそのまま放置されていたのか、それとも土砂に埋没したために使われなくなり、撤去されなかったのかはわかりませんが…。 |
先に進むと、現在の林道は常家戸沢をヘアピンカーブで渡り、方向を変えてS字を描き高度を上げていきます。 常家戸沢を渡るカーブの外側に、新緑の間から見える橋脚を発見しました。 |
軌道跡は、現在の林道の外側に沿ってカーブした橋となっています。 橋台、橋脚はコンクリート製でしっかりしています。 この橋にも板が渡してあり、歩道として使われていたのでしょうか。 山菜を取りに来ている人に「橋が壊れてないか調査しているのですか?」と聞かれ、林道の管理者と間違われました。 やはり怪しい動きをしていたからでしょうか…。 |
そして懲りもせず、秋にも訪れ写真を撮りました。 なお、国土地理院の地図では、常家戸沢を渡る手前までしか軌道の記載はありませんでしたが、営林署管内図ではさらに先まで描かれています。 軌道跡は、現在の林道に沿って方向を変えていることを考えると、林道と同様にS字ヘアピンカーブを描いて、もしくはスイッチバックで進路を変えて高度をとって進んでいたのでしょうか。 |
ヘアピンカーブを過ぎると常家戸沢の右岸を崖沿いに進みます。沢は道路右の下方にあり、結構な高さがあったかと記憶しています。 林道も結構勾配があり、ここを軌道が通るにはちょっと無理そうな気もしますが…。 |
さらに進むと、このような木の構築物が見られました。 崖崩れの防止のようにも見えますが、右側の構築物は桟道の橋脚の一部のようにも見えます。 |
その近くには人工的に加工された木材が放置されていました。 橋桁の残骸にも見えますが…気のせいでしょうか? なお、この先にも進んで調査しましたが、遺構らしきものを発見することはできませんでした。 |
2003年の現地調査は地図の赤い実線部分までですが、この先にはまだ未確認の箇所があります。 それは、5万分の1の地図や営林署管内図には記載がないのですが、なぜか20万分の1の地図にはこの先に南方向にZ字を描いて先に進んでいます。 20万分の1の地図の記載なので、詳細な距離や位置は分かりませんが、どのように進んでいたか気になります。また、20万分の1の地図では、常家戸沢を渡る箇所のS字の部分が描かれていないので、S字とZ字の記載ミスか?とも考えてしまいました。 (※ その後現地調査や机上調査の結果、Z字の軌道はないと判断しました(2014.12.29追記、追加調査参照。)) …と、このレポートを書いているうちに気になってしまったので、急きょ2006年5月に再び調査することとしました。 前回は車で林道を進んで調査しましたが、今回は車を痛めたくなかったので、途中からチャリに乗り換えて調査しました。 |
2. 2006年の調査 そして懲りもせずにまた来てしまいました。しかもママチャリで。アホだなぁー。 折りたたみチャリとか買おうと思ったのですが、高いのでやめました。そこで普段通勤で使用しているママチャリを車の後部座席を倒して乗せて運びました。 常家戸支線の始点2q手前に大きな水たまりがあったので、そこで車からチャリにに乗り換えて進みました。 チャリでの林道走行は、以外と体力を使います。無理せずゆっくり走って10分足らずで常家戸沢線の起点に到着しました。 すると、母沢を渡る橋が一部崩壊していました。 |
初めて訪れてから3年近く経ちますが…残念です。 資料によると昭和20年に常家戸沢線は開設され、昭和40年に廃止されています。開設から60年近く経っており、木橋の寿命はこのくらいなのでしょうか? 左岸側(写真奥)は、まだ壊れていませんでした。 |
常家戸沢沿いの林道です。春なので草が無くて視界が良好です。 やっぱり調査時期は雪解け後の草や木が繁茂する前の4〜5月か、雪が降る直前の11月が適しています。 |
林道左側の常家戸沢です。川岸が狭くて本当にここに軌道があったかと疑いたくなります。この写真の先がレールが残っている箇所で、今回訪れた時もまだ残っていてホッとしました。 |
そしてヘアピンカーブ部分の橋です。 以前訪れた時は新緑の間から一部分が見えましたが、春先はこのように全体が見やすくなっていました。 |
いいなぁ…この橋 実は、今まで調査をしていて、実際に使われなくなった橋を渡ったことがあるのはこの橋1回だけです(2003年の調査時に渡りました)。 しかし、既に使われていない橋を渡るのは危険だし、橋を壊しかねないので、今後は渡らないことにします。 |
S字ヘアピンカーブで高度をとって進みますが、上部から先ほどの橋を撮影しました。 写真ではよくわかりませんが、結構な勾配なので、機関車による運搬は無理そうな気がします。ここから先は手押しだったのかな? ※カーソルを合わせると軌道跡を表示します。 |
その先は、所々で崖崩れが起こっていました。 3年前は崩れていなかったのですが… 今回はチャリで来て正解です。 |
常家戸沢は林道の下方を流れているのですが、前回には気が付かなかった滝がありました。 滝を越えるには高度が必要なので、やはりこの林道が軌道跡だったと思われます。 |
ここからは前回の調査終了地点からさらに先の調査です(地図の点線部分)。 常家戸沢は写真の林道右のやや下方に流れています。 Z字を描く軌道跡とすれば、常家戸沢を渡って進むことになりますが、軌道跡らしきものをなかなか見つけられません。 |
土場の跡地らしい所にでました。ここから常家戸沢を渡り、Z字を描いて進んでいたのでしょうか。 常家戸沢の左岸にスペースがなく、Z字で進むことは無理です。金木署管内にインクラインがあったという記録もあるので、もしかしたらと思い、探してみましたが、勾配が思ったより急であり、斜面にもスペースが見あたらず、違ったようでした。 (※ その後現地調査や机上調査の結果、Z字の軌道はないと判断しました(2014.12.29追記、追加調査参照。)) |
ガックリしながら一応もう少し先まで進んでみました。 すると、沢の分岐点を過ぎた辺りで、対岸に道の跡らしきスペースがありました。 もしや、これが軌道跡なのでしょうか。 ※カーソルを合わせると、軌道跡?が表示されます。 |
林道を先に進むと、対岸には上流に向かってスペースが続いていました(雪が残っている箇所)。 現在の林道から方向転換し、前の写真の沢の上流へと進むと考えると、地図と同じようにZ字を描いて進むことになります。 この予想が正しいとすれば、この沢を渡って対岸へ進む必要があります。さらに上流に行けば橋の跡があるかも?と期待して進みました。 |
小さな沢のような、林道を分断する箇所に、木橋の跡?のようなものがありました。 例え木橋の跡としても、それが軌道のものかどうかは分かりませんが… |
さらに進むと、林業用トラクタでしか進んでいないような道になってきました。 沢は写真の右側です。沢を渡って対岸へと渡り、前の写真のスペースへと進んでいたのか、引き続き調査しようと思ったのですが、雪もまだ結構残っており、そろそろ危険(クマとか出たら怖いし…)と判断したので、この辺で終わりとしました。 またしても中途半端な調査になってしまいました。あーあ…。 |
結局、2回目の調査も中途半端ではっきりしたことは分かりませんでしたが、ヘアピンカーブの橋から1.7qほど進んだ後、対岸へ渡って別の沢へ進んでいたと私は考えています(地図の点線部分)。あくまでも予想なので間違っているかもしれませんが…。 参考に、机上調査で常家戸沢線が確認できた地図・資料を以下の表にまとめてみました(距離順に並べました)。 |
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※1 「汽車・水車・渡し舟 : 失われゆく心のふるさとを訪ねて・旅の記録写真集(橋本正夫刊)」、「全国森林鉄道:未知なる“森”の軌道をもとめて(JTBキャンブックス)」、「鉄道廃線跡を歩く2(JTBキャンブックス)」に掲載 ※2 樹齢百年に記載されている線名は「常定戸線」(記載ミスか?) |
何でこんなにも違うのでしょうか?調査年が異なるので違いはあると思いますが、延長が伸びたり縮んだりしており、謎です。一部の他の軌道でもこのように地図や資料により違いがあり、混乱しています。 これは私の予想ですが、一時的な作業線や手押しでの運搬区間については、資料によってその延長に含まれるかどうかの基準が異なるのではないかと思っています。それとも単なる記載ミスなのでしょうか? (追加調査結果) 「昭和21年度喜良市事業区施業案説明書」(青森営林局)には、「常家戸沢支線 延長1,090m」の記載がありました。また、「青森中部経営計画区 第一次経営計画書 金木事業区の部」(昭和33年 青森営林局金木営林署)には、計画として常家戸沢林道(森林鉄道2級)は昭和34年に2,300m新設の記載がありました。 これらのことから、開設当初は延長1,090mで、計画どおりならば昭和34年に延長し1,090+2,300=3,390≒3,488mとなったと考えられます(ズレはありますが、上表の資料についても概ね?説明できるかな?)。 また、開設工事の様子についても机上調査で解りました。 |
金木営林所管内の常家戸沢と木違沢に森林鉄道を新設することになった。昭和21年のことである。(注 別の資料では常家戸沢線は昭和20年、木違沢線は昭和9年に新設)。…(中略)…軌道は五トン機関車運行のものなので、古レールも九キロレールを使用し、枕木はヒバから採材した。物資は釘、鉄線、ボールト類はもちろん、岩石破砕のためのダイナマイトや、主食など、ほとんどのものが統制を受けていた。コンクリートはセメント生産が再開されていなかったから作りようがなく、もちろんミキサーも、機械と名のつくものは何一つない。本当の原始作業であったから人海戦術をとらざるを得なかった。 (中略) 軌道の新設工事は順調に捗どり、11月の末には完成した。直営形態を取っていたので関係官庁(警察や役場など)を招待して竣工祝を行なうことになった。 当時は砂糖はきびしい統制を受けていて配給なぞは微々たるものであったから、一つ大ふん発して北海道のビート糖を闇で買い集めて、あんころ餅でお祝いしようと衆議一決、二人の土方を北海道へ派遣した。 参考資料:青森林友269号(国有林と女シリーズ第二話 冷水事業所の炊婦たち) |
戦後間もない時期の工事で、様々な面で大変であったことがわかります。そんな中で、あんころ餅を作るために土方を北海道まで派遣したことはびっくりです。最高においしいあんころ餅であったに違いありません。
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