(2021.2.7 公開) 
  碇ヶ関林道 折橋沢支線

折橋沢支線は、平川市(旧碇ヶ関村)の南、秋田県との県境近くに存在しました。

自宅のある弘前市からもすぐに行くことができ、不明点が多かったため、何度も訪問することになりました。
 この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。  



折橋沢支線は、奥羽本線の津軽湯の沢駅付近から南西方向に折橋沢を遡上して進んでいました。

2004年に現林道を進んでみましたが、遺構を見つけることができませんでした。トホホ…。 


しかし、今回はトホホで終わらせないぜ。

折橋沢支線の正確な位置を確認するため、様々な地図を調べましたが、記載されている地図は少なく、記載されていても縮尺が小さく詳細な位置はわかりませんでした。そんな中、位置を特定できそうな営林署職員の記述を見つけました。

 内真部営林署から転じたのは大正十三年二月であった。大鰐営林署は碇ヶ関事業区も含まれておつて、実に青森営林局管内屈指の大営林署であった。…(中略)…

 小生赴任前は折橋国有林の官行斫伐は夏季に伐採し、冬季にソリで鉄道線路を越して碇ヶ関駅前貯木場へと運んだのである。しかして遠部山の部分と合して処分が行われておつた。

 折橋国有林は奥羽本線の西側にあつて年伐五〜六万石のものであつたが、伐採量が多くなるにつれて、冬季だけのソリ運材では到底融雪前に全伐採量を運搬するわけには行かなくなったので、これら雪に関係なく安全に作業を続けるために軌道の敷設となつたのである。

 ここで一番困難なことは、鉄道線路をいかに越すかにあつたのである。路線は折橋沢の右岸を通りいまの湯の沢駅の西側の方面を斜に通り駅(当時は無かつた)の南方の国道の架線鉄橋をくぐり碇ヶ関駅前貯木場に運ぶ線を設計し、融雪とともにいよいよ実行に取りかかることとなつた。ここは青森と秋田方面を結ぶ唯一の要路であり、列車は矢立峠から数多いトンネルをくぐり、突然急傾斜を進んで来るので鉄道に事故があつてはならぬとそれが軌道開さくの最も困難たものであつた。
(青森林友88号「大鰐営林署當時の思い出」から抜粋) 


青森林友88号の記事では、折橋沢上流から軌道跡をたどると、折橋沢の右岸を通り、津軽湯の沢駅の西側を通るとのことなので、右図の点線が軌道跡と予想できます。

しかし、「駅の南方の国道の架線鉄橋をくぐり…」の意味が分からん!

まっ、あまり気にせず、津軽湯の沢駅付近を再調査しました。 
この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。


 
 (駅南側から青森方向を撮影)      (駅北側、青森方向を撮影)
津軽湯の沢駅の周辺を撮影しましたが、軌道跡らしきものは見つかりませんでした。また、駅の北側は軌道が通るような空間はありませんでした。


やはりトホホで終わってしまうのか?あきらめる前に、もう一度、「青森林友88号」を確認してみました。

「いまの湯の沢駅」との記載がありますが、「いま」っていつでしょうか?
青森林友88号の発行年は1956年(昭和31年)、ということは…。

地図を見て気づきました(というか忘れていた)。奥羽本線には秋田県境の矢立峠越えの旧線が存在していたことを!

昔の津軽湯の沢駅は現在の駅から300mほど南東にあったので、「駅の南方の国道の架線鉄橋をくぐり…」という表現も分かってきました。先ほど予想した地図はマチガイでした。


津軽湯の沢駅付近の軌道予想地図です。

起点の碇ヶ関駅付近の貯木場からは、当時すでに敷設されていた碇ヶ関林道を利用して奥羽本線沿いに進みます。

旧津軽湯の沢駅の南側@で奥羽本線旧線をくぐり、旧津軽湯の沢駅西側を高度を上げて進み、A地点で南へ方向を変え、折橋沢右岸に沿って上流Bへ進む、というものです。

大まかな位置が把握できたので、2010年、2011年に再度現地調査を行いました。
この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。  


旧奥羽本線が国道7号線を跨ぐ@地点で、左側が旧駅方向です。撮影した2010年11月は、旧奥羽本線跡の跨線橋は残っていましたが、現在は撤去されて無くなっています。

折橋沢支線敷設にあたって、碇ヶ関事業区施業案説明書(大正4年2月)には、「既設の相乗沢線あるいは湯の沢線の軌条を移して敷設すれば少額の投資で行える」との記載がありました。実際に行われたかどうかは不明ですが、調べてみると折橋沢支線と相乗沢線、湯の沢線が同時に存在した時期は無いので、軌条を移設したかもしれません。

起点である碇ヶ関から旧津軽湯の沢駅付近までの調査結果は、碇ヶ関林道のレポートをご覧ください。


跨線橋下から旧津軽湯の沢駅方向を見ました。軌道が敷設されていたはずですが、そのような跡は見つけられませんでした。

今考えれば、この落差を軌道が通る訳がないので、左側を斜面に沿って少しずつ高度を下げて通っていたのかもしれません。


旧奥羽本線跡に回り込み、旧津軽湯の沢駅跡を南側から撮影しました。

旧線撤去後に住宅が立ち並んでおり、軌道跡だけでなく旧奥羽本線跡も分からなくなっていました。

A方向に進みます。


旧駅の西側斜面あたりに軌道が敷設されていたと思われますが、ここからでは軌道跡らしきものを確認することはできませんでした。


A地点の下にやってきました。今度は北側から旧駅方向を撮影しました。

軌道はこの斜面を進んでいたと思われますが、確認できませんでした。


もう少し斜面を上れば軌道跡があると思うのですが、これ以上笹藪の中を進む勇気が無かったので、ここからの確認は諦めることにしました。


一度斜面から下りて、津軽湯の沢駅の南東で折橋沢を渡り、尾根の西側斜面を上っていきました。


斜面を上ると、軌道跡と思われる空間を発見しました。まずはA方面へ進みます。


進みにくい所もありますが、境界見出標のようなものを頼りに無理矢理進みます。


歩きやすくなってきました。

左に津軽湯の沢駅と通過中の貨物列車が見えます。


とうとうA地点に着きました。なかなかの眺めです。

ここで折り返して、先ほど確認できなかった@方向へ進みますが、どうなっているのでしょうか。 


 しかし、すぐに軌道跡は崩れて無くなっていました。

目の前の笹藪は先ほど断念した箇所で、笹藪が広がっていました。


仕切り直して、今度はBに向かって南下します。こちらの軌道跡は明確でした。


あまりにもきれいな軌道跡だな〜と感じていたところ、「貸付地界」と記載された柱がありました。

送電線か何かの貸付地の管理のために、軌道跡の一部を利用して通路を整備しているようでした。


 
 軌道跡らしき道はまだ続いていますが、陥没していたり、木が成長していたりとちょっと歩きにくいです。  


 
小さな沢を渡ります。橋脚のようなものが残されていましたが、正体は不明です。  


ちょっと場所を変えて、奥羽本線矢立トンネル入り口から北方向を撮影しました。

調査してきた軌道跡は右側の林の中を通っています。


軌道跡は、矢立トンネルの上を超えて西へ進みます。

道床の盛り上がりがわずかに確認できました。


B地点です。

トンネルの上を越えてすぐに小さな沢を渡ります。
対岸に橋脚が見えています。


横から撮影しました。

小さな橋でしたが橋桁も残されていました。


 
起点方向の橋脚(左)と終点方向方向の橋脚(右) です。ボロボロで無くなりそうでした。


軌道跡はこの先、現林道に合流して進みますので、現地調査はここまでとしました。軌道跡を大まかに把握し、小さい橋跡も見つけましたので満足でしたが、気になることが1つ残っていました。

先ほど紹介した青森林友88号の記事には続きがあり、ダイナマイトを使った軌道開削時のトラブルが記載されています。


たまたま鉄道から二人の役人が署に来て営林署はけしからん矢立峠を通る長距離電話線を三本も切断して、五時間余りも最も電話の使用の多い時に不通にした。始末書を出してくれというのである。

よく話を聞いて見ると、矢立峠を通ずる東京、青森間の長距離電話線は五本ほどあって、そのうちの三本を切断したのである。

銅線を張りつめてあるのに破碎岩石片が当ればたちまち切れるのはあたりまえであつて、鉄道側で色々テストした結果、矢立峠付近とわかり直ちに現場付近に行つて見ると、相変らずハツパをかけているので署に来た次第であつた。…(中略)…

その後墜道番小舎の中に大玉石を転がし入れて側壁を破つたり、ハツパズリを線路の向側運ばせてくれたり、都合が良かった。

土木係員と打合番小舎の修理をしたり土砂で汚れた鉄道床敷れき(礫)を「フルイ」にかけてやつたりして、多少鉄道側の心もくんでやることにした。

現在は別のところに軌道が通り元の軌道は湯の沢駅構内の一部になつてただ方面の角に軌道の形とおぼしきものが空線に見えるのみである。

(青森林友88号「大鰐営林署當時の思い出」から抜粋) 


「元の軌道は湯の沢駅構内の一部になつて…」の部分は、これまでに調査した箇所ですが、「現在は別のところに軌道が通り…」との記載から、折橋沢支線には新線があると思われます。

「近代化遺産 国有林森林鉄道全データ東北編」によると、折橋沢支線は大正13年に開設し昭和5年に牛馬道に格下げとなっていますが、その後昭和19年に再度軌道として開設され、昭和33年に牛馬道に格下げされています。一度軌道を撤去され、昭和19年に再度開設されたようです。

また、施業案説明書等の資料も確認したところ、昭和2年施業案説明書に軌道としての記載はありましたが、その後、昭和7年、9年、16年、17年の資料には軌道としての記載はなく、昭和22年施業案説明書で再度記載がありました。

その後は昭和32年の資料まで軌道の記載が見られたほか、昭和24年の経営図で大まかな位置を確認することができました。


ゴチャゴチャして見にくいですが、折橋沢支線(新線)は図の赤線のように通っていたと予想しました。

碇ヶ関貯木場からの碇ヶ関林道は、奥羽本線から離れて二ノ渡の集落を経由し、遠部沢支線として南下します。

折橋沢支線は遠部沢支線から分岐し、平川を渡り、奥羽本線旧線をくぐって折橋沢を遡上していきます。

2014年に再び現地調査です。
この地図はカシミール3D「山旅倶楽部」を使用して作成しました。  

遠部沢支線との分岐点付近です。遠部沢支線は国道7号線に沿って通っていたと思われます。

そして、折橋沢支線は写真の右方向へ分岐し、平川を渡っていたようですが、そんな雰囲気は全然感じられませんでした。

遺構は残って無いだろうと半分あきらめてましたが、道路を渡り、平川を見下ろしてみました。


国道は結構な高さに位置していますので、のぞき込むようにしないと川が見えません。

正面に見えているのは?


対岸に橋脚らしきものを発見しました。
でもちょっと遠くてわかりにくいです。
 


少しでも近づくために、国道の柵を乗り越えて下ります。

国道を見上げると…高いぜ! 


 
橋台は見つけられませんでしたが、対岸だけでなく、こちら側にもコンクリート橋脚がありました。   近くには橋脚等の固定に使われていたと思われるボルト類が落ちていました。


橋脚を横から撮影しました。

対岸の橋脚を調べるために、河床に下りる必要があります。ジャンプすれば川へ下りられる高さでしたが、戻れない可能性があったので、この時は諦めて引き返しました。


時期をずらして7月に再調査です。橋跡の少し上流にある紅葉の名所の岩渕公園から河床を歩いてきました。

碇ヶ関村では昭和11年、村内の森林、渓流、温泉等の資源を紹介し観光客を迎え入れるため、観光協会を設立しました。

そして、遠部沢渓流の探勝や岩渕公園の紅葉を観賞するため、観光協会が観楓会を開催し、碇ヶ関貯木場から遠部沢事業所まで軌道を利用し観楓列車を運行したこともあったとのことです。


 
起点側にあった橋脚です。すでにボロボロで砂利や小石がむき出しになっていました。   対岸の橋脚は葉っぱが邪魔でうまく撮影できませんでした。


現 津軽湯の沢駅方向から回り込んで、対岸の軌道跡を探しました。

盛り上がっている部分が怪しいですが、橋台などの遺構は見つけられませんでした。


橋跡から起点方向を撮影しました。こちらからも対岸の橋脚を確認できました。

国道7号線は白い法面の上を通っています。こちらの高さから考えると、軌道は法面の下あたりを通っていたと思われます。


橋跡近くは空き地になっていました。

ここには、林業休養センターが設置され、温泉やテニスコートなどがあったのですが、2009年に無くなってしまいました。


そして、旧奥羽本線跡をくぐって折橋沢を遡上していきます。

この先は奥羽本線敷設のため軌道跡は分からず、調査を終了しました。 


現 津軽湯の沢駅から南方向を撮影しました。
正面の山の中腹あたりを旧折橋沢支線が通っていました。
  岩渕公園で走り回る我が息子(当時7歳)です。
他には人がおらず、閑散としていました。


津軽湯の沢駅付近には岩渕公園、遠部沢渓流のほか、林業休養センター、湯の沢温泉郷、碇ヶ関御関所などの観光資源がありましたが、現在は施設廃止や移転などのため、観光客があまり見られず、ちょっと残念です。さらに津軽湯の沢駅は2018年以降、12月1日から3月31日までの冬期間は通過駅となってしまい、さらに寂しくなってしまいました。

調査に付き合わせた息子を岩渕公園や平川で遊ばせたり、コンビニで買ったおでんを津軽湯の沢駅の待合室で食べさせたりしたことが懐かしく思い出されますが、そんな息子も4月からは東京に行くことになりました。

( 線名 地図 )